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宇宙人に癒される~映画『みーんな、宇宙人。』~

映画『みーんな、宇宙人。』(宇賀那健一監督、2024年。以下、本作)を観ながら、「最近、皆、考えすぎなんじゃないか」と漠然と思った。

ある日、誰かの役に立とうとビルの屋上で「オレオレありがとう」を繰り返すセイヤ(兵頭功海)のもとに、突然何かが空から落ちてくる。
セイヤが電話を切ると、エメラルドブルーの毛がモジャモジャの見たことのない生き物ーーミントがそこにいた。ミントと他愛もない会話をして仕事へと向かうセイヤだが、その後、体型にコンプレックスを抱くミサト(菊地姫奈)のもとにオレンジ、自分に自信が持てずネガティブなショウ(西垣匠)のもとにピーチ、寂しがり屋な女の子・レイ(三原羽衣)のもとにオリーブ、人間を強く信じるヒロト(草川拓弥)のもとにクロウ、これまでの人生に悔いがあるミステリアスな人物・リュウ(YU)のもとにグレープというミントの仲間たちが次々現れ、会話を通してお互いのことを少しづつ理解し始める......。

本作パンフレット「Story」

物語は各登場人物につき10分程度のショートストーリーのオムニバスといった構造で、だから登場人物たちが交流することはほぼない。
オムニバスを1つの物語として成立させる「筋」を担っているのが冒頭・中盤・結末に登場するセイヤで、だから彼が一応の主人公ともいえる。

登場人物は上述の「Story」にあるとおり、何らか悩みや不安を抱えているのだが、それらの原因が揃いも揃って「気にしすぎ」にある。
彼ら/彼女らが「気にしすぎ」ているのは「他人の意見・評価」だ。
たとえばセイヤは「他人より劣っている(気がする)」、ミサトは「他人より太っている(気がする)」などなど。
本作は、本来は地球人を駆除しにやって来たはずの宇宙人たちが、それら地球(の若者の)話をじっくり聞いてあげて適切な言葉を返してあげたり、じっと傍にいてあげたりと、『会話(など)を通してお互いのことを少しづつ理解し始める』という展開となる。

この展開について、脚本も務めた宇賀那監督が本作パンフレットに寄せた文章によると、コロナ禍で(特に長編作品の)撮影が困難になったことなどを経た上で、本作でも主役ともいえる「モジャ(ミント)」を主役にした短編を作り、そこから本作へと広げていったという。

宇宙人が地球人にインタビューする会話劇だった。(略)僕がその内容にしたかった理由は、COVID19によって人と会うこと、話すことかがめっきりと少なくなってしまった中、「対話」は重要なキーワードではないかと思ったからだ。

本作、中盤に箸休め的に老人男性が登場する以外、登場人物は若者だが、これは本作のターゲットが若者だからというだけでなく、現代の若者が抱える問題が投影されているからだ。
それはつまり、既に書いたとおり「他人の意見・評価を気にしすぎ」な点で、登場人物たちは皆、具体的に誰かに何かを言われたり強制されたりしていないのに、勝手に「良い人でいなければならない」「痩せて美しい容姿でなければならない」と自分自身を縛り付けるが故、本来する必要のない努力を自分に課している。
その自縛を宇宙人たちとの対話によってほどいてゆくのだが、自縛にとらわれているのは実は宇宙人たちも同じだ。
各ショートストーリーの切り替わりで必ず『駆除しなければならない日まで〇〇日』というテロップが出るのだが、何故『しなければならない』かは説明されないし、恐らく宇宙人たちも知らないのだろう(ラップ対決するクロウが、理由らしきものをラップに乗せるが、それは誰かから聞かされた教科書的なようなもので実感が伴っていない。だからヒロトに負けてしまう)。

で、結局宇宙人たちが『しなければならない』と思っているのは、単に地球に遣わしたラスボス(麿赤児)に「駆除してこい」と命令されたからだ、ということがおぼろげながらも明らかになってくるのだが、だから自身の信念ではないので、地球人と少し対話しただけで簡単に翻意してしまう。

で、そんなこんな地球人と触れ合っているうちに「駆除する日」がやって来て、業を煮やしたラスボス自らが地球にやってきてしまう。
で、ラスボスを前に宇宙人たちは揃って、地球人を駆除することに反対する。
彼らのその態度に狼狽えて「怖い、怖い」と繰り返すラスボスは、見事に「老害の人」に転じてしまう。
ラスボスは様々な「老害」の象徴であるが、その彼が「怖い、怖い」と恐れるその先に、私はグレタ・トゥンベリさんの姿を見たのである。
つまり、地球環境に対して堂々と正論を掲げ、その信念に従って毅然と行動する彼女を世界中の「老害」たちが揃って攻撃するのは、その正しさと行動が一致することに対する「恐れ・畏れ」なのではないか。
ふと、そんなことを思った。


メモ

映画『みーんな、宇宙人。』
2024年6月19日。@ヒューマントラストシネマ渋谷

『みーんな、宇宙人。』というタイトルはなかなか意味深だが、本作における「他人の意見・評価」を気にしすぎる若者たちは皆、自身を宇宙人だと思っていて、だから無理にでも地球に溶け込まなければならないと思い込んでいるのではないか。
しかし、その考え方を裏返せば、映画『ちひろさん』(今泉力哉監督、2023年)で主人公の「ちひろさん」が言っていたように「他人はみんな、違う星から来た宇宙人」となる。
そう考えれば、少しはラクに生きられるのではないだろうか。

セイヤと「モジャ(ミント)」がカフェ(或いはカジュアルなバー?)のカウンター越しに会話するシーンで、セイヤはぬいぐるみと会話しているように見え、映画『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』(金子由里奈監督、2023年)を思い出した。私はその映画の感想文にこう書いた。

ぬいサーが、何も知らない人たちから気味悪がられるのは、ぬいぐるみとしゃべっているからではない。
ぬいぐるみとしゃべる彼女ら/彼らの言葉が、自らの内から出た正直な-名前のついていない、既製品じゃない-言葉だから、他人には伝わらない、理解できない、そのことが気味悪いのである。

本作、別に誰からも気味悪がられてはいない(それどころか、ぬいぐるみみたいな宇宙人のことを誰も気にしていない)が、セイヤを始め、登場人物たちが『ぬいぐるみとしゃべる彼女ら/彼らの言葉が、自らの内から出た正直な-名前のついていない、既製品じゃない-言葉』で思いを吐露することにより、浄化されていくのではないか、と思ったのだった(つまり、本作の宇宙人たちがぬいぐるみみたいな風体なのには、重要な意味があった、というわけだ)。


レイ役・三原羽衣ういさん出演作




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