「何でも」を真正面から受け止めること~映画『その鼓動に耳をあてよ』~
何でも診る
「医者なんだから当たり前じゃないか」
そう思うかもしれない。でも「現実」はそうじゃない。
激務やそれに伴う人不足、成り手不足……「現実」の理由はいくらでも挙げられる。
しかし、本当の「現実」とは、「何でも」が実は何も意味しない曖昧で空虚な言葉だ、ということではないか?
映画『その鼓動に耳をあてよ』(足立拓朗監督、2024年。以下、本作)を観て、「何でも」の広さと深さに驚愕した。
『ヤクザと憲法』(2016年)、『人生フルーツ』(2016年)、『さよならテレビ』(2018年)など数々の名ドキュメンタリーを手がけた東海テレビ制作の映画第15弾である本作のテーマは「救命救急センター」だ。
舞台は「名古屋掖済会病院」の救命救急センター。
掖済とは『「腋」に「手」を添えて、「掖」=「救済」することのようだ』。
この病院について、一連のドキュメンタリーシリーズの名物プロデューサー阿武野氏の「プロダクションノート」の言葉を借りて紹介する。
長々と引用したのは、本作で描かれているのは、まさにこの背景があるからだということを説明したかったからだ。
港と国道が近いこの場所は、だから、下請けの小さな町工場が密集する地域でもある。そして、だから、折からの不況で生活に困窮する者が増えてくる。
この病院の救命救急センターへの搬送者たちの中には、工場で指を切断してしまったりといった大きなケガをした人も大勢いる。
生活困窮者も多く、本作では大量の未納分請求書が紹介され、中には「逃げた」と手書きで大きく書かれた請求書もある。ホームレスが仮病を使って暖を取りにくることもある。
「何でも診る」病院は、そんな患者でも断らない。
本作の主要人物の一人である蜂谷康二医師は言う。
『救急の何でも診るは、年齢と病気の"何でも"診るところだと思っていたら、社会的な問題の"何でも"まで含まれている』
『究極の社会奉仕をしている感じじゃない?』
本作を観ているうちに、体の震えが止まらなくなった。それは、「得体の知れない憤り」によるものだ。
最近は特に、とにかく物事を「良い/悪い」のどちらかにはっきり区別したがる風潮に拍車がかかっていると感じる。
確かに、治療費を払わないとか仮病を使って暖を取りにくるとか、良いことではない。でも、そういった行いをする本人だけを「悪い」と決めつけることはできないんじゃないか。「社会のせい」と言えばいいのかもしれないが、それではあまりにも収まりが良過ぎるーつまり、「何でも」の空虚性と同じで、「何も言っていないことを取り繕っているだけの体裁の良過ぎる言葉」じゃないか。
「誰も悪くないのに、何で皆、こんなに苦しまなければならないのか?」
その「得体の知れない憤り」が私の体を震わせる。
もう一つ痛感したのは、「何でも診る」は「何をも診られない」と表裏一体だということだ。
「カッコいいから」とずっと救命医を目指してきた研修医の櫻木医師は、『全身診られるし、風邪みたいなのとか、脚に釘が刺さってたりとかもあれば、中には超重症もある。幅広く診られるのは僕にとってはすごく楽しい』と語る。
しかし、そんな彼に迷いが生じる。
手に負えない患者に対しては専門医の助けを借りるが、専門医はわずかな時間で患者を的確に診断してしまう。
それを目の当たりにした彼は、「何でもできる」は、実は「何をもできない」ということなんじゃないか、と思い悩む。
これはそのまま医者の「立場の差」に直結していて、実際、「専門がない救命医は下に見られる」のだ。
救命医は運ばれてきた患者を専門医に繋いでいく仕事でもあるが故、ただでさえ忙しい専門医からすれば「仕事を押し付けてくる厄介者」でもある(もしかしたら救命医にとって、専門医へ電話するのが一番辛い仕事なのかもしれない、と本作を観ながら思った)。
この差は、救命医を志望する医者が極端に少ないことにも、大きな影響を与えている。
私は、それは単に「(ある価値観においての)優劣の意識」だけの問題だと思っていたが、それだけではないことを、初めて知った。
「専門がない」こととも関係するのだが、救命救急センター長の北川喜己医師曰く『(救急科は)医局制度がしっかりしている他の科に比べ、将来像が見えにくい』、つまり明確なキャリアパスが確立していないのだ。
『専門医と救急医との立場が平等になることが願いです。ずっとそれを目ざしてやっているけど…なかなか難しい』と唇をかみしめる北川センター長だったが、彼はただ悔しがっているだけではなく、自身の努力によって確かな一歩を踏み出した。
ラストに明かされるその知らせは、まだまだ仄暗いが、しかし救命救急の明るい未来を予感させる希望の光となった。
メモ
映画『その鼓動に耳をあてよ』
2024年2月3日。@ポレポレ東中野
本稿は「何でも診る」という言葉を軸に書いたが、本作は日本の救命救急をベースにし、日本社会全体の実情を描き出している。
また、コロナ禍で全国の医療機関が厳しい制限をかける中、名古屋掖済会病院は、撮影カメラを入れるだけでなく、制限をかけず「医療の最後の砦」を死守した。
「死守」という言葉は大げさではなく、本作にはその激闘と苦悶、そして救えたはずの命に対する悔しさが余すところなく描き出されている。
国内外の救命救急モノの名作ドラマをイメージすると強烈なショックを受けるかもしれないが、しかし、ショックを受けることこそが、今の我々には必要なのではないか、そう思った。
ひとつだけ、強烈に印象に残ったことだけ書いておく。
序盤に、飛び降り自殺を図った人や自らオーバードーズに陥った人が運び込まれてくる。
その人たちを救おうとする救命医たちを観ながら、「自ら死を選んだ人を助けること」について考えていた。
それは是非とかそういうことではなく、もっと単純で曖昧なパラドックス的なことで、これに対し、蜂谷医師は「自殺を図る人の中には精神疾患を抱えた人も多い」と前置きした上で、こう答えた。
単純で曖昧だった私のパラドックスは、単純で確かな答えに生まれ変わった。
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