日常と共にある読書~宮崎智之著『平熱のまま、この世界に熱狂したい』~
宮崎智之著『平熱のまま、この世界に熱狂したい 増補新版』(ちくま文庫、2024年。以下、本書)を読んで、「やっぱり、読書は日常と共にあるのだなぁ」と思った。
「人生」なんて大袈裟なものではなく、日常のほんの些細なことに対しても、「あの本のこの文章」を想起してしまう。
酒を飲むときだって、「酒に飲まれる」自身に言い訳するように文学者を引き合いに出す。
文学青年だった著者は、酒乱で知られる詩人・中原中也を自身に重ねる。
そして遂に著者は、アルコール依存症に陥り、それが遠因となって離婚も経験する。
とはいえ、本書はその闘病記でも悔恨を綴ったものでもない。ただ著者の日常を綴ったエッセーであり、そこに当たり前のように「文学」「音楽」が寄り添っている。
赤ちゃんや犬が『平気な顔をしてオナラをする』のを見て、加藤美希雄の『愛と死・そのふたり 明治・大正・昭和・百年の心中秘話』(清風書房、1968年)の一節を思い出す(オナラが『心中』とどう関係するのか、気になる人は是非本書を)など、本書には著者の洞察力やユーモアが溢れている。
どの言葉にも相応の重みがあるのは、著者が読書などで得た言葉を自身にちゃんと取り込んでいるからで、だから、「相応の重み」とは著者自身の「身体的重み」である。
昨今、SNSなどネット社会においては、得た言葉(というか端的に「情報」)を如何に人より早く広く伝えるかを競い合っているようにも見える。
得た言葉(情報)を身体に取り込むことなく条件反射的に反応し、だから、感情的な言葉で溢れてしまい、あっという間に諍い・炎上・分断になり、人々がそれに煽られ熱狂しているように見える。
誤解してほしくないのは、私は「読書」を賛美しているわけではないということだ。
いくら読書をしても、巷には私の拙稿を含め、「何処が・何故」の説明(考察)もなしに、「面白かった」「つまらなかった」「わかり易かった」「わからなかった」「正しい」「間違っている」といった、重さの欠片もない感想しか書けない者もいる。
本書の表題となっているエッセーで、著者はこう綴っている。
読書もネットも、『すでにあるものを、もしくはあったものを確認する作業であり』、それは『不確実な現実から確実な切れ端を少しでも掴もうともがくこと、その勇気を持ち続けること』の力の源泉となると信じたい。
私もまた、21世紀を、ネット社会を、唯々傍観者づらしてシニカルを装うのではなく、著者と同じように、『平熱のまま、この世界に熱狂したい』。