取り壊される校舎が卒業していく彼女たちによって再生していく逆説~朝井リョウ著『少女は卒業しない』~

高校の卒業式というのはとても特別だ、と朝井リョウ著『少女は卒業しない』(集英社文庫、2015年。以下、本書)を読んで思った。
幼い頃から私立の学校を目指すような子は別として、小中高と地元の学校に通うごく普通の子たちは、高校卒業が初めて経験する大きな「人生の岐路きろ」となる。
ある者は親元から通える地元の大学へ、ある者は大都市の大学へ、またある者は就職したり、中には結婚する者もいるだろう。
ひとえに「大学進学」といっても、何となく「大学くらい出ておかないと」と思っている者もいるし、明確な人生の目標に向かって懸命に努力した者もいるだろう。
だから、大げさでなく、本当に彼女ら/彼らにとって高校卒業が、初めて経験する大きな「人生の岐路」となるのだが、だからこそ、これまでやろうとしてできなかったことや、言おうとして言えなかったこと、区切りをつけておきたいことなんかを実行に移す勇気が出る。
それは、卒業生を見送る在校生だって(たぶん)同じで、卒業していく誰かに対して後悔しないように勇気を振り絞る。

本書は、そんな卒業式を機にありったけの勇気を出した6人の女子卒業生と1人の女子在校生の短編物語が収められている。
しかも、本書の卒業式は、毎年繰り返される恒例行事としての卒業式とは趣が異なる。
その理由は、卒業生の作田さんによってこう説明される。

だけど今年は違う。(略)三月二十五日が卒業式だ。在校生も卒業生といっしょに、この高校に別れを告げることになる。
(略)この春でこの高校は取り壊されてしまうということだ。

本書に収められた7編は、別の物語の生徒がチラリと登場したりするものの、基本的には各々おのおの独立した物語だ。
しかし奇妙なことに、全物語を通読すると、北棟・南棟・西棟が取り壊されるのを待つだけなのに対し、以前から使われていなかった東棟だけが、(もちろん他の棟と同様に取り壊されてしまうにも拘わらず)生気を取り戻し、完全な姿でよみがえってしまうのだ。
というのはもちろん比喩だが、少女たちの物語を読み進めるうちに、長年使われていなかったが故に発信元も真偽も不明な東棟にまつわる怪しげな噂や、言い伝え・ジンクスなどが全て解消され、かつて使われていた当時の校舎に蘇るのである。
これは所謂いわゆる「伏線回収」とは趣向しゅこうが異なる。何故なら、伏線なんて元々ないからだ。

などと物語の内容と関係ないことを書きながら、「さすがベストセラー作家だなぁ」と感心して見せているのは、50歳を過ぎたオヤジが、女子高校生の卒業物語に感動してしまったことへの照れ隠しだ。


……ところで、『少女は卒業しない』という本書のタイトルは、何を意味しているのだろう?
確かに3話目に送辞を読む在校生が登場し、以降の話に彼女がちょくちょく登場するので、「確かに彼女は卒業しないなぁ」と思ってはみたものの、1話目、2話目を読み返しても、そろそろ老眼期に差し掛かった私の目では、彼女を見つけることはできなかった。

そんなわけで、柄にもなく「卒業」を機にありったけの勇気を振り絞る健気けなげな女子高校生たちの少し切ない物語を読んだのは、先日(2022年10月)、東京国際映画祭の出品作として先行上映された、本書を原作とした同名映画(中川駿監督、2023年2月23日公開予定)を観たからである。
公開前というのもあるが、それ以前に原作との違いをあれこれあげつらうのは野暮だと思っているので、ここでは書かない。
原作を読んだ人もそうでない人も、間違いなく満足できる映画なので、公開したら是非映画館に足を運んでほしい。

(2023.02.17追記)
「小説すばる」(集英社) 2023年3月号に掲載された映画公開記念対談にて、中川駿監督に『少女は卒業しない』というタイトルの意味を聞かれた作者の朝井リョウ氏は、『回答はあるんだけど、「これが正解です」となるとせっかく響きそうな音が消されてしまいそうだから』といった旨の発言をして、明言を避けた。


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