映画『違う惑星の変な恋人』~東京国際映画祭 2023 ワールドプレミア先行上映~

久しぶりにゲラゲラ笑った。

映画『違う惑星の変な恋人』(木村聡志監督、2024年公開予定。以下、本作)は、脱臼しっぱなしの"POPで素敵な"会話劇だ。

美容室で働くむっちゃん(莉子)とグリコ(筧美和子)は音楽の趣味が合うことに気づいて以来、なんでも話し合う仲となる。ある日、グリコに未練のある元恋人モー(綱啓永)が美容室に現れる。グリコはシンガーソングライターのナカヤマシューコ(みらん)のライブで旧知のベンジー(中島歩)と再会し、同行していたむっちゃんはベンジーに一目ぼれ。むっちゃんはグリコとモーの協力を得てベンジーと恋仲になるべく奮闘するが、ベンジーはナカヤマシューコと関係を持つ一方で、久々に会ったグリコにひかれていた。そしてグリコもむっちゃんに対し罪悪感を抱きつつ、ベンジーのことが気になってしまう。

本作ストーリー紹介より(俳優名は引用者が追記)

本作、野暮な表現に落とし込んでしまえば、終盤のスポーツカフェのシーンにあるように、「一方通行の愛情ゆえに閉じてしまった四角関係」の恋愛群像劇、ということになる。
ドロドロにしようと思えばいくらでも可能なシチュエーションを、自ら脚本も書いた木村監督は、独特のセンスで「小ネタ満載のテンポ良いポップな会話劇」に仕立て上げた。
それに個性的な俳優が自身のキャラクターを生かしながらの絶妙で軽快な演技が加わった結果、映画館は「クスクス」から「ぷっ!」、「ゲラゲラ」まで観客の笑いが絶えなかった。

「小ネタ」は、上映後の舞台挨拶に登壇した木村監督自身が「全部はわからない」と言い切るほどふんだんに盛り込まれている(ようだ)。
驚くのは、それら(まぁ私がわかった、ごく限られた範囲において)が、ことごとくセンスが良いことだ。

"グリコ"、"ベンジー"というあだ名が(役としての)本名に由来している(ただし、ティーチインで観客から「"ベンジー"はあんまり伝わってなかった」という指摘があったが……)とか、牛田モーという名前とか、ネーミングはとにかく秀逸だ(ちなみに、私のお気に入りは、モーのボーリング仲間が"はしらたにてつじ"と"いはらまさみ(!!)"だったことで、特に"いはら"の名前が出たとき、座席からずり落ちそうになった)。

主要4人の人物はそれぞれ「もう、この人しかありえない」と思えるほどの的確なキャスティング(断っておくが、それらは"素晴らしい演技力と演出力"の賜物であって、俳優本人と同一視したものではない)で、中でも、"ベンジー"役の中島歩はティーチインで観客から「安定の"クズ"っぷり」と絶賛されるほどである(私も他の拙稿で何度か彼の"クズ"っぷりを絶賛している)。

ところで本作は『違う惑星の変な恋人』というタイトルだが、宇宙も宇宙人も出てこない。世界でも日本でもなく、ただ「東京のごくごく限られた狭い一角」で(極端な)善人でも悪人でもなく、唯々凡庸な日本人(地球人)の男女が、セコイ(とはいえ本人たちにとっては人生を左右する重大事と思っている。まぁ、そこが凡庸なのだが)感情や出来事に振り回されながら、唯々生活しているだけの話である。
なのに、このタイトルは、本作全てを見事的確に言い表している。

これは「映画」だから、製作者らによってカリカチュアされた世界観・人物として造形され、予め脚本が用意され、俳優はそれを基に与えられたセリフを喋り、演出されたように演技する。
観客は、それを前提条件として受け入れた状態で本作を観る。だから、この可笑しさ(奇妙さ)に気づく(というか、上述のとおり、気づくように作られている)。
その可笑しさ(奇妙さ)とは、つまり、彼ら/彼女らの「会話」は、何一つまともに成立していない(最年長で大人の"ベンジー"にはある程度の"企み"が見えるが、特にモーに関しては、本人が真面目(まとも)であればあるほど、すれ違っていくのが絶妙に面白い)のに、本人たちは何となくの勝手な解釈の下で納得しているところだ。

で、その対比として「伝わらない」ということを的確に観客に示したのが、「キャンディーの置いてあるカフェ」の店員と"グリコ"の会話だ。
4人にはそれぞれ思惑があることが観客に「伝わっている」ので、「会話が伝わっていない」ということが「伝わらない」。
そこで、「伝わらない」ということが「伝わる」ために、あえて、関係のない人物を登場させたのではないだろうか。

このシーンが秀逸なのは、カフェの店員が言う「哲学ですか?」に集約される。
「会話」が成立するためには、まず、それに先立つ「前提条件」を互いに擦り合わせる必要がある。しかし人間は何故か、往々にして自分の頭の中で考えた(浮かんだ)「前提条件」が相手に伝わっていると信じ切って、話を切り出してしまう。
唐突な言葉を受け取った人は、反射的に、発話者が「(気がふれたわけではなく)意図を持って発話している」と思い、言葉の意味を捉えようとする。しかし、どう考えても、正しい(であろう)返答にたどり着かない(当然だ)。
窮して思うのが、「哲学ですか?」

思い返してみれば、喫茶店や電車、路上などで「袖すりあった」人たち、或いは携帯電話で話している人々から漏れ聞こえてくる話は意味不明なことばかりだ。辛うじて「日本語だ」とはわかるが、それ以外は何もわからない。
まさに「哲学ですか?」

いや、大抵の場合において、それが「哲学」でないことは、経験上知っている。
とすれば、アレだ。きっと、そうに違いない。
哲学じみたことを話しているあの人(たち)は、「違う惑星」から来た宇宙人に違いない。

なので、このタイトルは、本作全てを見事的確に言い表している。

メモ

映画『違う惑星の変な恋人』
2023年10月29日。@角川シネマ有楽町(TIFF 2023 ワールド・プレミア先行上映。上映後ティーチインあり)

本作、2024年公開に先立ち、TIFFで世界初上映されたわけだが、この後、「TAMA CINEMA FORUM 2023」のプログラムとして、2023年11月19日に公開前先行上映が発表されている。
当日は、木村監督の他、"むっちゃん"役の莉子さん、"グリコ"役の筧美和子さん、ナカヤマシューコ役のみらんさんによるアフタートークが予定されており、ある意味TIFFよりも素敵な企画であるので、興味のある方は是非鑑賞ください。

(追記)
本稿公開後もダラダラ考えていて、というのは、何だか過去に同じように思ったことがあるからで、そうしたら、映画『ちひろさん』(今泉力哉監督、2023年)に思い当たった。
有村架純さん演じる主人公の"ちひろさん"は、「他者はバラバラな星から来た宇宙人」、といったことを何度か口にする。
さらに映画のラストシーンの「餃子の大きさ」についてのトンチンカンなやり取りは、まさに「哲学ですか?」に通じるのではないか。

(更に追記)
本文で『「会話」が成立するためには、まず、それに先立つ「前提条件」を互いに擦り合わせる必要がある』と書いた。
広瀬友紀著『子どもに学ぶ 言葉の認知科学』(ちくま新書、2022年)によると、『人間の会話には、お互いが、会話の目的に合った妥当な発言を続けることで話を前にすすめてゆくという共通理解がある』という。
言語学では、この「共通理解」は、下記のようなポール・グライスの「会話の公理」によって説明されるらしい。

量(Quantity)の公理:求められているだけの情報を持つ発話をせよ。求められる以上に情報を持つ発話をするな。
質(Quality)の公理:偽であると信じていることを言うな。十分な証拠を欠いていることを言うな。
関係(Relation)の公理:関連性を持て。
様態(Manner)の公理:曖昧な表現を避けよ。多義的になることを避けよ。簡潔たれ。順序立てよ。

言語が面白いのは、この『公理、つまり了解事項に一見違反した表現がされた場合、それは言葉通りの意味でないサインとして機能する』どころか、『むしろ多くのことを伝えることができ』ることだ。
それが可能なのは、『あえて「関係の公理」に違反してみせることにより、聞き手が言葉以上の情報を勝手に見いだしてくれる』、逆に言えば、我々が『勝手に見いだして』いるからで、本作は、この仕組みを巧みに利用して、わかりやすい「会話の脱臼」を表現している。


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