映画『まなみ100%』(2022年TAMA映画祭ワールドプレミア・世界初上映)

映画『まなみ100%』(川北ゆめき監督、2023年公開予定。以下、本作)の結末を観て、バンバンのヒット曲「いちご白書をもう一度」(荒井由実作詞・作曲、1975年)の現代版のようじゃないか、と感じたのだが、上映後のアフタートークで本作が川北監督自身の"現在進行形"の「実話」だと知って、当たらずとも遠からずだったと思った。
本作は、2023年2月公開予定の映画で、映画館で観た若い人がどのような感想を持つか、とても興味がある。

と言うのも、個人的には本作は、大袈裟ではなく「将来の日本映画の行方を左右する実験的映画」と感じたからで、その「実験」とは、「現代のラノベの世界感をそのまま映画化した」ことにある。
その根拠は、東洋経済ONLINE 2022年10月28日配信の『今の若者たちはなぜ「絶対に失敗したくない」のか』と題する、『映画を早送りで観る人たち』の著者稲田豊史氏と『先生、どうか皆の前でほめないでください』の著者金間大介氏の対談記事の中での稲田氏の下記発言にある。

普通、主人公は逆境を乗り越えて成長していくものですが、不快な登場人物に水を差してほしくないという声が、ライトノベルやアニメの分野で目立ちはじめている。最初から最後まで主人公は最強で、1回も悩んだりしない。そういう快適さを求めている読者が結構多いと、あるラノベ編集者の方が言っていました。

本作、川北監督をモデルにした主人公"ボク"(青木柚)が、2010年に高校入学の時に出会った同級生の"まなみちゃん"(中村守里しゅり)に10年間恋し続けるという「純愛映画」を謳っているが、それは従来の「一途」とは全く異なるものだ。
"ボク"は、まなみちゃん一筋ではなく、とにかく好みの女の子だと思えば迷うことなくアタックし、先々のことだけでなく相手のことも全く考えず、何又もかけてしまう。あげく、それで女の子に振られても、めげることなく、また次の女の子に出会い、それがことごとく成就してしまう(で、成就しなかったのが高校時代の部活の先輩(伊藤万理華)とまなみちゃんで、それをもって「純愛映画」だと言い張っているような気がする)。
その"ボク"の行動が、『最初から最後まで主人公は最強で、1回も悩んだりしない』という稲田氏の指摘そのものなのである。

私はこの記事を読んで、正直、稲田氏の指摘(というか、このようなラノベの傾向自体)がイメージできなかったのだが、本作を観て、物凄く納得した。

『最初から最後まで主人公は最強で、1回も悩んだりしない』というのは、"ボク"自身に全く「内面」がないからで、だから『悩んだりしない』のではなく『悩めない、或いは悩むということ行為自体が理解できない』のである。
だから、当然『主人公は最強』にならざるを得ず、この最強は、ハリウッド映画史の豪華アクション映画のどんな主人公も相手にならないくらいであり、ある意味、これまで数多作られた「ゾンビ映画」での中でも最強の恐怖を味わえるほどである。
唯一張り合えるとしたら、対戦相手らをことごとく廃人になるまで追い込んだ"矢吹ジョー"くらいではないか。

で、『最初から最後まで主人公は最強で、1回も悩んだりしない』主人公はどうなるか、というと、当然、「何も変わらない」のである。
10年間でまなみちゃんを含め周囲は、高校卒業から進学・就職を経験して成長していくのに、"ボク"だけが全く変わらず、完全に浮いてしまう。しかし、内面を持たない"ボク"は浮いてしまっていることに葛藤できないし、「(青春時代特有の)変わってゆく周囲への反抗」すら芽生えない。
「内面のない人間」をわかりやすく言えば「何を考えているかわからない」のであって、だから「内面のある人間」は恐怖を感じるのである。
それを指摘したのが、たしか(初見でうろ覚えで違っているかもしれないが)、関西弁の女の子で、つまり、"ボク"が女の子たちに振られまくるのは、浮気性からではなく「内面がない」からである。

それは女の子だけではない。高校時代の部活動で後輩女子のやる気がなくなってしまうのも、大学時代の映画サークルで人が次々と離れていくのも、全て"ボク"に「内面がない」ことに起因する。
しかし、「内面がない」"ボク"(を含む、高校時代の同級生「3バカトリオ」全員)は、内省することなく(というか、できない)、全て周囲の人間のせいだと思い込んでいる(就職して現場監督しているヤツが「人がどんどん辞めていくんだよね」とあっけらかんと言うのには驚いた)。

もちろん本作は、そんな主人公を全肯定しているわけではないが、川北監督自身の事実に基づいた話(しかも、まなみちゃんも実在し、本当にこんな関係らしい)ということに配慮してか、ものすごく遠回しな表現になっているように感じた。
そんなストーリーを書いたのは、ピンク映画界の巨匠で近年は商業映画で監督や脚本も務め、2022年には『神田川のふたり』というキュンキュン青春映画を撮って世間を驚かせた、いまおかしんじ氏。
アフタートークでいまおか氏が語ったところによると、内容もよくわからずに気軽に引き受けたら、後日川北監督から連絡があって、実在のまなみちゃんと飲みに行ったり、映画の基になる自身の10年間を詳細に記録した分厚い紙の束を渡されたりしたらしく、いまおか氏は「気持ち悪っ!」と言った。

その「気持ち悪っ!」は、ものすごく遠回しな表現になっているが、しかし全編に渡って醸し出されている。それは、これだけ"ボク"が言い寄った女の子がことごとく彼のものになる(川北監督の実体験に基づいたと知らなければただの"男の妄想的ご都合主義"に思える展開な)のに、彼自身がそれらに満たされることがなく、ちっとも幸せそうに見えないところに表れている。

「満たされる」ことについて、本作鑑賞当日にたまたま購入した花田欣也著『是枝裕和とペ・デゥナの奇跡』(天夢人、2022年)で、是枝監督が韓国の俳優ペ・ドゥナを主役に撮った映画『空気人形』(2009年)の意図をこう語っていた。

"満たされる"っていうことは結局他者によってしか満たされない、っていうことなんじゃないかな。「私などという者は、私によっては満たされない。」という、ネガティブなことではなく、「他者とどう関わるか、っていうことでしかない、私などという者は……。」がテーマなんじゃないかな。

『空気人形』は、ペ・ドゥナ演じる「心」を持ってしまった性処理用空気人形(今で云う「ラブドール」)が生身の人間と触れ合っていくというストーリーで、本作は「心(内面)」を持たない生身の人間から人が離れていくストーリーだが、実は根っこは同じで、『他者とどう関わるか、っていうことでしかない、私などという者は……。』がテーマとなっている。

この、物語の革命ともなり得る実験映画は、とは言え、現在においては従来の「商業映画」として公開される故、そのまま提出すればその革新性が一般に理解されないことを考慮し、それなりの結末が用意されている。
それが冒頭に書いた『就職が決まって髪を切ってきた時/もう若くないさと君に言い訳したね』という歌詞の「いちご白書をもう一度」で、"ボク"の行為そのものだけでなく、己の内面に何の革命理念も持たないのに気分で学生運動に熱を上げていた当時の若者たちの内省に重なる。

この解釈が「当たらずとも遠からず」だと思ったのは、自身の体験を綴った「商業映画」を監督できたのは、『他者とどう関わるか、っていうことでしかない、私などという者は……。』と"ボク"が気づいたからだと、川北監督を目の前にして理解できたからである。

メモ

映画『まなみ100%』
2022年11月20日。@聖蹟桜ヶ丘・ヴィータホール

「TAMA映画祭」のワールドプレミアとして「世界初上映」された本作。
本文に、いまおか氏が感じた「気持ち悪っ!」が、ものすごく遠回しに表現されていると書いたが、唯一直截ちょくせつ的に表現されていたのは、高校生の「3バカトリオ」に向かって、いまおか氏自身が演じる老人がいきなり現在の政治問題を問い始め答えられない彼らにいかるというシーンだろう。

上映後の監督らによるアフタートークで、いまおか氏は別のシーンにも出ていたがカットになったことが明かされた。そのシーンは、高校生の「3バカトリオ」が憂さを晴らすために商店街のゴミ箱などを倒したりと大暴れしたあげく、いまおか氏が写った選挙ポスターを剥がしてぐしゃぐしゃにした後、ゴミ箱に入れるという展開で、カットの理由は「("ボク"役の)青木柚くんが悪者に見えるから」というものだった(ちなみに選挙ポスターを剥がしたり落書きすると、本作でも教師が指摘するように、公職選挙法第255条により「自由妨害罪」として罪に問われる)。
この判断が正しかったと思ったのは、「悪者に見えるから」ではなく、実験映画として時期尚早だったからだ。つまり、従来の映画界の重鎮監督・脚本家であり、本作の脚本を担当したいまおか氏をそのように扱うのは、現状では明らかにパロディーの域を超えて、ただの「悪ふざけ」でしかなく、これからの映画の価値観を変えられるポテンシャルを秘める本作には相応しくない。
この価値観が通じない現在において、上記行為は、明らかに「自身のために成長する」ことを(良い意味でも悪い意味でも)無自覚に受け入れている多くの一般の人に対する冒涜でしかない。

余談だが、本作を観ながら腑に落ちたことがある。
それは、いとうせいこう著『解体屋外伝』(講談社、1993年)という、新興宗教団体や自己啓発セミナーによってマインドコントロールされた人たちの洗脳を解く"解体屋"が主人公の、サーバーパンク的物語の結末である。
"解体屋"の敵となる新興宗教団体に利用されている"ノビル"と呼ばれる少年が、信者をマインドコントロールではなく初期化(ウォッシュ)してしまい、最終的に"ノビル"を利用しようとしていた人々まで知らぬ間にウォッシュされてしまうという展開で、最後に"ノビル"と対決した"解体屋"は、"ノビル"の中に「何もない」ことを知る。

そのことを受けて、"解体屋"の師匠(マスター)が"ノビル"のことを、こう評する。

「誰もあの子を壊せないよ。壊すものがないんだからな」
「壊すものどころか、何もない。(略)今もあの子はそれを歌っている」
「壊すものがない人間を、どうやって壊すというんだ?」

つまり、"ノビル"に関わった人々がウォッシュされるのは、彼の中に『何もない』からだと説明されるのだが、当時の私にはイマイチ理解できなかった。
それが本作で、内面を持たない『何もない』"ボク"と関わった人々が次々と彼から離れていくのを観て、腑に落ちたのである。
相手に「内面」があるからこそコミュニケーションが成立するのであって、相手に「内面」がなければ、自身のコミュニケーションは全て相手に吸い込まれてしまい、何の反応も返ってこない。それは、確かに「恐怖」に違いない。


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