「共助」の物語~映画『夜明けのすべて』~

コロナ禍にあって時の政権が「自助・共助・公助(の順)」と言って批判を浴びたのは、自らが発した「緊急事態」の意味がわかっていなかったからで、もちろん(民主主義社会において)平時は「自助・共助・公助」であるべきだ。

映画『夜明けのすべて』(瀬尾まいこ原作、三宅唱共同脚本・監督、2024年。以下、本作)を観て元気が出るのは、そこが基本的に「共助」の世界だからだが、元気が出るのは逆説的に「共助」が難しいからでもある。

「パニック障害」や「PMS(月経前症候群)」など病名が付くのは、本人にとって「本人由来ではなく病気なんだ」とある意味の安心に繋がるとともに、公的助成や免除、会社などによっては勤務形態への配慮など、「公助」にも繋がるといった「良い面」がある。

しかし、病名が付くことによって一般的な病気としてわかりやすくカテゴライズされ、同じ病名でも症状や辛さは超個人的なものであることが理解されにくくなり、また病名が付くことで共同体から異質扱いー最悪の場合、排除ーされてしまうといった「悪い面」もあり、故に「共助」に繋がりにくい。

だから山添君(松村北斗)も藤沢さん(上白石萌音)も周囲に病名を打ち明けることができないし、山添君との会話で藤沢さんが「PMSは、まだまだだね」と漏らしたりする。
或いは病名が付いていなくても、たとえば身近な人を自死で失った遺族のショックや悲しみも同様、他人に打ち明けることをはばかってしまう。

そうした事情から、特に日本社会においては「自助」で何とかできなかった場合に、「共助」に頼れず「公助」に直結してしまう傾向がある(さらに言えば、特に日本社会においては「公助」に頼るのを躊躇する人が多いのもまた事実で、それは公助側がやんわり遠回しに拒絶しているからでもあるが、三宅監督が FRaUのインタビューに答えたとおり『PMSを抱える様々な人たちの話で興味深かったのは、皆さん苦労をされているのに“私よりも大変な人はもっといるから”と語っていた』[1]といった、当事者が「自省による抑制」をしてしまっていることも大きい)。

我々にとって「共助」がないがしろー直截的に云えば「不信」ーにされているのは、本作パンフレットに掲載された原作者・瀬尾の言葉にも表れている。

読者の方から「栗田金属(注:原作の会社名)のような職場があったらいいな」という感想をよくいただきます。逆に「あんないい会社があるわけない」という否定的な意見もある

続けて瀬尾は、撮影現場を見学したときの印象を語る。

撮影現場の空気そのものが、本当に栗田金属のようでした。(略)すごく居心地がよくて、「ちゃんとあるじゃない、こういう世界が」と感じさせてもらいました。

それは監督・三宅唱の現場(所謂「三宅組」)によるところが大きいのではないか。

自身の短編映画としては、『THE COCKPIT』(2012年)で「音楽」が、『ワイルドツアー』(2019年)では「(初)恋」が誕生する場面を描いてきた。
それも特別なこととしてではなく、狭いアパートの一室で仲間とワイワイやりながら曲を作る、とか、夏休みのワークショップに参加した少年たちが講師役の女子大生に恋をするとか、とにかく「日常」にこだわってきた。
しかし、誕生したからといって、それがずっとそのまま無事とは限らない。生まれて生きている間に、病気になったりケガをしたり、傷ついたり傷つけられたりし、ハンディキャップを背負うこともある。

だからこそ、(商業)長編映画における三宅監督は、『きみの鳥はうたえる』(2018年)、『ケイコ 目を澄ませて』(2022年)や本作において、原作もの、しかも表出するか否かは別として「ハンディキャップ」を背負った人物たちを描いているのではないか。
三宅監督は『きみの~』のパンフレットにおいて『映画をつくる時に自己表現したいなんてことはまるで考えていない』と発言している。
では何を表現したいかというと、「物語そのもの」であり、そのことが恐らく彼が原作ものを手がける理由でもあろう。

だから、有名な話だが『ケイコ~』においては主演の岸井ゆきのとともにボクシングの練習をしたりと、三宅監督は常に物語に(監督という職業イメージから想起される)「俯瞰」ではなく、「当事者」として身を置こうとしているのではないか。

本作でいえば、公開記念舞台挨拶で登壇したキャストたちが明かしたように「端役に至るまで、その人物の来歴などが書かれた"設定資料"が手渡された」という。これは共同脚本の和田清人と監督が書いたもので、その一部が本作パンフレットに掲載されているが、本当に細かく書かれている。

「当事者」として身を置く、という意味においては、『(劇中の)栗田科学を描くのに、その撮影現場が過酷なものであってはならないのではないか、とプロデューサーと相談した』と、これも舞台挨拶での監督自身の発言から読み取れる。

その舞台挨拶の最後、三宅監督はキャストや制作スタッフだけでなく、舞台挨拶の司会者や全国の映画館スタッフに対して、感謝の意を述べた。
そういう大勢の人たちの「共助」があってこそ、映画が作られ、観客に観てもらえるのだと。
それは映画だけでなく、世の中のあらゆることの本質でもある。

人は誰でも、生きていれば自分で抱えきれないほどの苦しみを感じることがある。そんな時、「助けて欲しい」と手を差し出せること、そして、その手を誰かに掴んでもらえること、この当たり前の安心と信頼が持てる社会であってほしい。本作のように。

「これは映画だから」といった反論があるかもしれない。でも、原作者の瀬尾まいこは実感したのだ。

ちゃんとあるじゃない、こういう世界が

本作のラスト、受けそこなったボールが観客の方に転がってきて、スクリーンから消える。
そして、(バトンではなく)ボールという「希望」は観客に渡されたのである。

メモ

映画『夜明けのすべて』
2024年2月10日。@MOVIX京都(公開記念舞台挨拶 ライブビューイングあり)

ちなみに、三宅監督が日常にこだわっているのは、本作だけでなく、本文に挙げた(商業)長編映画2作のエンドロールの映像でもわかる。

『きみの~』では、登場人物たちがいなくなった後の函館郊外の街の日常風景が数秒映る。
『ケイコ~』では、朝、東京が目覚める風景が淡々と流される。
そして本作では、(藤沢さんがいなくなった後の)栗田科学の朝の風景が紹介される。
こうして、登場人物たちがいなくなったあとも、人々の「日常」は淡々と続いていくのである。

舞台挨拶で松村さんだったか上白石さんだったか失念したが、本作について「説明が少ない」と発言された。
誤解なきように云うと、本作は説明が「ない」わけではない。それは「多少はある」ということではなく、言葉以外で説明されているのである。だから、本作は「説明が少ない」=「わかりづらい」のではなく、むしろ「わかりやすい」。
一例を挙げれば、山添君が、藤沢さんが忘れたスマホを届けに行く場面だ。
それまで頑なに作業服を着ることを拒んできた彼が、あの場面で初めて着る(社長が気づいたことも、ちゃんと示唆されている)。
そのあと、山添君は前職に戻れるよう働きかけていた元上司に対し、断りの謝罪を口にする。
つまり、本作は言葉ではなく、行動や態度において「説明されている」のである。

なお、三宅監督と共同脚本の和田清人氏は、WOWOWのドラマ『杉咲花の撮休』の「第5話 従姉妹」「最終話 五年前の話」(続きもの)を手がけている。
この中で、公開される映画について記者から「お気に入りのシーンは?」と問われた「杉咲花」は、こう答える。

それは決められないです。何でもないシーンが、すごく大事な時間だったりするので。

三宅作品において、それをエンドロールの映像が示している。

[1] FRaU 2024年2月7日付配信記事『松村北斗×上白石萌音『夜明けのすべて』の三宅唱監督が語る、「生きづらさ」という言葉の危うさ』(ライターのSYO氏は、本作パンフレットにも寄稿している)


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