映画『ガザの美容室』~UPLINK吉祥寺 緊急100円上映~
見逃した作品を映画館で再上映してくれるのは、ありがたいし、嬉しい。
だが、こんな形での再上映は、とても辛い。
しかし、だからこそ観たいと思ったし、観なくてはいけないとも思った。
多くの人が同じ気持ちだったことは、満席になった映画館が証明している。
2023年10月に勃発した紛争により、またしてもパレスチナ自治区ガザが壊滅的な被害となっているのを受け、UPLINK吉祥寺が、映画『ガザの美容室』(タルザン&アラブ・ナサール監督、2015年。日本公開2018年。以下、本作)の「不定期 100円均一上映」を始めた。
ニュース映像等で見る無残な被害状況に加え、名作が100円で観られるとあってか、満席の状態が続いている。
朝日新聞2018年6月20日付夕刊は、本作をこう紹介している(年齢や状況等は掲載当時のもの)。
もし、映画に「見方の正解」があるとするならば、終盤以降、涙が止まらない私の見方は正解だろうか?
そう考えていたのは、私自身、何故涙が止まらないのか、そもそも何故涙が出てしまったのか、全くわからなかったからだ。
物語は終始、ガザの小さな美容室の中で繰り広げられる。
丁寧が信条の店主の仕事ぶりに加え、アシスタントの女性は付き合っている男との痴話喧嘩に忙殺され、さらに別のアクシデントが次々と起こり、延々と1人の客にかかりっきりになってしまう。待ちくたびれた客たちはイライラを隠そうともせず、それがまた作業の遅延につながる。
かといって、待ちくたびれた客は店を出ることもできない。
何故だか店の前にライオンが寝そべっているからだ(首にリードが付けられているから野生ではないらしいが、そのリードがどこに繋がっているかカメラは追わない)。
ライオンが寝そべる美容室の外(屋外)は、銃を持った男たちが、目的があるのかないのか、ぶらついたり座り込んでいたりする。
つまり、美容室の内外で「女」と「男」の世界がきっちり分断されている構図なのだが、しかし、美容室の中にいる「女」たちは携帯電話や痴話喧嘩、離婚訴訟などで、外の「男」たちと繋がっていて、結局「女」だけの世界においても「男」たちに支配されていることを物語は明らかにしている。
作業は遅々として進まず、明るかった外は日が暮れて暗くなっている。
その時だ。
店の外から派手な銃声が轟いた。
店の灯りは落とされ、女たちは息を詰める。
そこから私は涙が止まらなかった。
銃声や男たちの声、車の走行音、投降を呼びかける声……が映画館に備え付けられた方々のスピーカーから流される。
爆発音と共に映像が揺れる。
涙が止まらないだけでなく、呼吸までもが荒くなる。
私は明らかにパニック状態に陥っていた。
そこで気がついた。
美容室に閉じ込められているのは、彼女たちであり、また、私たちなのだと。
途中までは、「男」たちが始めた争いに翻弄されながらも、美容室というアジールの中で明け透けな話をしながら逞しくしたたかに生きる「女」たちを描いているように見せかけ、しかし、結局は「男」に支配されている女たちのやるせなさを滲ませていて、それを描いているのだと思っていた。
本作は、そんな生易しいものではなかった。それは周到に計算されていた。
遅々として進まない作業によって外は夜、つまり映画館の闇と同化する。
その上で、閉じ込められた美容室(=映画館)の外で戦闘が始まる。
暗闇の中、表の状況がわからず、緊迫した音が響く。
これは映画だ。だから、本作を「体感型アトラクション」とたとえることもできる。
しかし、これは「リアル」だ。だからこそ今、UPLINK吉祥寺で再上映されているのだ。
閉じ込められた美容室は、無理矢理外に開かれてしまう。それもまた、「男」たちの仕業だ。
彼女たちは、私たちは、男たちの勝手な論理に翻弄され、支配されてしまう。
これは映画だ。だから、「終わり」が来る。
しかし、これは「リアル」だ。だから、本作に明確なエンディングはない。
映画館は明るくなり、出口が開かれた。
外に出るための行列が、我先に一刻も早く危機から脱したいと焦る人の列に見える。
それを座席に座ったままぼんやり見つめていた私は、余裕があったのではなく、外に出るのが怖かったのだ。人々が出ようとしているドアは、ガザの、あの美容室のドアなのではないか、外はニュースなどで見た光景そのものなのではないか、と。
メモ
映画『ガザの美容室』
2023年10月21日。@UPLINK吉祥寺