赤堀雅秋一人芝居『日本対俺』

赤堀雅秋氏の一人芝居を大根仁氏が総合演出すると知って、ふと、2016年6月21日にNHK Eテレで放送された「ニッポン戦後サブカルチャー史Ⅲ 90'sリミックス」という番組の中で、故宮沢章夫氏が赤堀氏と大根氏の名前を挙げて"荒くれ者"と評したことを思い出した。
それは、かつて渋谷で「チーマー」なる集団が跋扈していた頃、当時高校生だった番組スタッフが津田沼で「カツアゲ」に遭い、そのカツアゲした人物が「俺は"渋谷"から来た」と捨て台詞を吐いたという話で、「赤堀・大根という2人の"荒くれ者"を輩出した津田沼より、"渋谷"が凄かった」というオチになる。
その話を知っているかどうか知らないが、両氏はハナから"渋谷"なんぞ相手にしていないことは間違いない。
何故なら、一人芝居のタイトルは『日本対俺』(赤堀雅秋作・演出・出演。以下、本作)なのだから。

と、ここまでは観劇に出かける前に書き置いていたものだ。
その時はまだ、文面からわかるとおり「また大きく出ちゃって(ニヤニヤ)」と揶揄する気持ちだった。

しかしそれは、宮沢氏の『荒くれ者』という表現の面白さ(的確さ?)に気を取られ、赤堀氏の作風を失念していただけだ。
『日本対俺』は決して「大きく出ちゃって(ニヤニヤ)」ではなく、むしろ、高度情報社会で世界中とリアルタイムで繋がり、名も場所も知らぬどこかの国のどこかの地方で起きたことが、日本の「わたくし個人」にまで大きな影響を及ぼしてしまう21世紀の現代において、「私個人」が上手くいかない原因としての「仮想敵」を未だ「日本」にしか設定できない中年男の、「絶望的な小ささ」を身も蓋もないほど徹底的に暴露するものだった。

無料で配布されたリーフレットに寄せた赤堀・大根両氏のコメントには『罰ゲーム』という言葉が頻出する。大根氏は言う。

小屋入り直前になってようやく出来上がった台本は、臭い汗と、汚れた血と、下町のナポレオンこと焼酎いいちこがブレンドされた謎の液体に浸った雑巾を、ギューッと絞りあげた末に滴り落ちたリキッドのようだった。しかもドブ色の。
トクトクトク…さあ、どうぞご賞味ください。って、これじゃ皆さんの罰ゲームじゃん!!

本作、5本の一人芝居と、その合間に流れる短編映像(山下敦弘監督)によって構成されている。
オープニングで、赤堀氏と後輩(というより舎弟)の2人の役者(水澤紳吾・松浦裕也)が居酒屋でクダを巻きながらダラダラ飲んでいる映像が流れる。普段の彼らの様子をカリカチュアしたような映像だが、これが作られた物語(脚本・赤堀)だというのは、映像が芝居の合間に流れるごとに、段々のっぴきならない切なさへ疾走していくことからもわかる。

一人芝居で演じられる物語の主人公は皆、赤堀氏と同じ52歳の男。行きつけの近所のサウナで大声で町内の噂話をする男、工事現場の交通整理員、父親の年金で暮らす引きこもり、上手くいかない人生を逆恨みして無差別殺人を企てる男……
赤堀氏の作風であるから「サラリーマン」は出てこないが、出てきたとしても結局は同じことだ(というか、それだと逆に、もう「罰ゲーム」などと言っていられないほどマジになってしまう気がする)。

映像の赤堀氏も、彼が演じる主人公もすぐに「俺は52歳だ」と口にする。
彼らは決してそれを誇っているわけではない。
何も考えられなくなるほど働いてクタクタで横になり、昨日の続きの今日をとにかく生き延びるだけの生活の中で、「成長」の実感など感じる余裕もなく、しかし「老い」だけは圧倒的なリアルさで迫ってくる(何しろ「身体」で直接思い知ることになるのだから)。
「身体は年取って来てるけど、精神的には若い頃と同じままで、全然成長してないよなぁ」と嘯いたところで、「若い頃」が具体的に「どの頃」かわからず、というか、自分には「そんな頃」すらなく、ただ使い古されたレトリックを無批判にマネているだけかもしれない。
彼らが言う「俺ほ52歳」には、そんな拠り所のない不安と戸惑いが現れている。

と同時に、その言葉には「もう一発逆転すら望めない」という「都合の良い」諦観も多分に含まれていて、だから、「俺は52歳」と言い続ける彼らは、夜な夜な閉店したがっているスナックのママに懇願までして、家で待っている「現実」から逃避し続けようとする。
ママを口汚く「ばばあ」と呼びながらも、罵る言葉さえ言えない善良さからか、或いは罵ることさえ飽きてしまうほど散々繰り返されたやり取りだからか、結局「長生きしろよ」と続け、『男の意地を 見せるでヤンス(略)男の道は ど根性でヤンス』(「ど根性でヤンス」(東京ムービー企画部作詞、1972年)。ぴょん吉でもヒロシでもなく、彼らを慕う後輩の「五郎」の口癖をフィーチャーした曲を選ぶ、というのが絶妙というか、かなり意地が悪い、というのは考え過ぎか?)と気持ち良く歌って一日を締めるという、未だ昭和の教育から『成長してないよなぁ』と己の情けなさを露呈することしかできない。

結局のところ、彼らだって「サラリーマン」だって、私だって観客だって、自分の思い通りにならない、いや思い通りに出来ない自分の実力や才能のなさを「希望すら持てない、得体のしれない薄気味悪い世の中の空気」のせいにして、その原因が「日本」という「仮想敵」にあり、それと「戦う」自身を妄想しているに過ぎないのかもしれない。

オープニングの映像は、居酒屋のトイレから出てきた赤堀氏が、何故か上半身裸で勝新太郎の『座頭市』のマネをして、それがいつの間にか居酒屋から崖の上になっているというシュールな終わり方(というか、本作としては「始まり方」)をする。
それは最終的に映像の最終話でのオチに通じるわけだが、つまるところ「52歳の俺(たち)」は、「いち」を気取って目をつぶり「見えない敵」と戦っているのである。
何故「市」を気取らなければならないのか?
本当は、「俺(たち)」に見える狭い範囲に、もう「戦うべき本当の敵」なぞいないことに気づいているからだ。
誰もいない崖の上で一人、「日本」という敵を退治する妄想に耽って悦に入る「俺(たち)」。
しかし、敵はもう「日本」ではなく、果てしない「世界」にまで広がっている。
必死に妄想して「日本」を敵にするのがやっとの「52歳の俺(たち)」には、「世界」なんぞ無いも同じだ。
その「52歳」のリアルな滑稽さを露悪的に観せる。
まさに赤堀氏の真骨頂である。

メモ

赤堀雅秋一人芝居『日本対俺』
2023年9月30日 マチネ。@下北沢 ザ・スズナリ

私は彼より1つ上の53歳。
こんな芝居を作って演じる彼、それを笑って観ている俺は、まだ自分の「小ささ」「滑稽さ」を相対化して見られている、と安心した。
もしかしたらそれは、こんな芝居を作る、それを観て笑うことで、現実逃……いや、やめておこう。


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