人は深く傷ついたり、とても大切な何かを喪うと、自分を支えることができなくなり、深い孤独に苛まれる。だから神に頼ろうとするが、願えば神が傍で寄り添ってくれるわけではない。だから、自ら神の傍へ行こうとする。
間違ってはいけないのは、自ら神の元へ行こうとする者を神は許さないということ。
神は「傍へ来い」と語りかける。
間違ってはいけないのは、だからといって安易に傍へ寄ろうとする者も神は救わない、ということだ。
神は「歩いて来い」と語りかける。
こうした「巡礼」は、宗教や国、人種を超えて、世界中で行われている。
「カミーノ・デ・サンティアゴ」(以下、カミーノ)もその一つだ。
森知子著『カミーノ 女ひとりスペイン巡礼、900キロ徒歩の旅』(幻冬舎文庫、2013年。以下、本書)には、こう説明されている。
宗教や歴史も違うので一概には言えないが、日本の「お遍路」のようなものだろう。
本書は、2010年に「TV Bros.」のケータイ専用サイト「モバイルブロス」上に日々アップされた著者の44日間に渡る巡礼記をまとめたものである。
とはいえ、彼女は連載のために歩いたわけではなく、切実に神を求めていたのである。
フリーライターの彼女は、それを「TV Bros.」に売り込んだ。
かくして……
『スペイン810km徒歩の旅』。あれ? 本書のタイトルと違う(ちなみに、「巡礼証明書」はゴール手前の100キロだけを歩けばゲットできるそうだ)。その理由は後述するが、それにしても本書を読むと「旅は道連れ世は情け」なのは日本だけでなく、世界の普遍なのだと納得する。
ついでに「類は友を呼ぶ」も……
著者は出発地点に向かうまでに、既に「道連れ」たちと出会っていた。
まさに「類は友を呼ぶ」。
これを「神の御導き」と云えるかは別として、ただ、同じ「離婚」が理由だとしても(もちろん、それ以外の如何なる理由であろうとも)、ペリグリーノ(巡礼者)各々の事情や想いは様々で、だから旅の終わりまで仲良く連れ添うことはない。
著者は基本的に一人きりで孤独や寂しさと向き合いながら歩き続け、その中で、様々な事情や想いを抱える人たちとの出会いと別れを繰り返す。
「人」も様々なら、「宿」も様々だ。
だから、『野戦病院のような巨大宿』や『ペリグリーノの足を洗う儀式がある宿』など様々なアルベルゲがあり、『あぁ、あそこはダニが出るわよ』と評判(?)の宿もある。食事も付いてたり付いてなかったり。
元々がリアルタイムのブログ記事だった本書は、著者の日々の行動が日記風に書かれていて、だから読者は日本に、家にいながら、彼女と一緒に「カミーノ」をしている気分が味わえる。
そうやって読み進めていくとやがて、当然なのだが目的地である「大聖堂・コンポステーラ」が近づいてきて、「終わりがあるのが旅の宿命」だと思い知ることになる。
著者はゴールを目指しながら、しかし、帰国後に待ち受けているであろう孤独を想像して怯えてもいて、本書ではその逡巡も綴られているが、それでも41日目に、彼女はとうとうサンティアゴへ着い(てしまっ)た。
そこでどれだけの感動と感慨が押し寄せてくるのか、と期待に胸膨らませた彼女(と読者)は、見事に裏切られることになる。
(怒りを伴う)空虚な気分をまぎらわすため、ゴール記念と言い訳して『ちょっと高そうな地中海レストラン』に入った著者は決意する。
「810キロ+90キロ=900キロ」。これがタイトルの意味だ。
44日目、遂に最終目的地・フィステーラ岬に到達する。
そこで思わぬ再会があり、ドラマのような結末に到る。
ここから先は、ぜひ、読者としてではなく、著者と共に44日間の旅をしてきた仲間として想いを共有してほしい。
落涙必至。
泣いた後は、絶対元気になっているはずだ。
だって、一人なのに、一人じゃないって教えてくれるのだから。
……だからといって、自分もカミーノに出かけたくなるかといったら、それはまた別の話。