映画『夢の中』
あえて、ここから始める。
2024年5月4日、劇作家・演出家・俳優の唐十郎氏が逝った。
70年代アングラ演劇を牽引してきた氏の作品は、新宿花園神社に紅いテント造りの、謂わば「見世物小屋」のような場所で上演され、その作風は「幻想譚」「観念的」とも云えるものだった。
映画『夢の中』(都楳勝監督、2024年。以下、本作)を観た人は、本作に「幻想譚」「観念的」という感想を持つかもしれない。
しかし、本作と唐氏のそれらは全くの真逆である。
唐氏を含めた「従来の」意味での「観念的」作品は、送り手側の「観念」の結果が舞台上で表出する。従って、批評のアプローチとしては、送り手側の「観念」がどういうものかの検討がなされ、その結果としての作品が検証される。
それは、唐氏が掲げる「特権的肉体論」からも見て取れる。
本作でスクリーンに映る俳優は「肉体による結果」ではなく、「結果としての肉体」である。
それはもちろん意図されたもので、カメラマンの藤澤(玉置玲央)が被写体であるモデルの根元アヤ(山谷花純)に言う、『カメラこそが真実だ』というセリフ(初見だったので合っているかわからないが、だいたいこんな感じ)が端的に物語っている。
アフタートークに登壇した映画監督の高橋広吏氏は、「セリフが素晴らしい」と語ったが、それは「素晴らしいセリフ」を役者が発しているに過ぎない。
『逃げたところはウソばかり』『私が向いている方が前だ』(これも、まぁだいたいこんな感じ)とか、セリフとしてはキマっているが、それは肉体からの欲求で発せられたものではない。
そもそも本作においては、藤澤の云うとおり「内面」は封印され、「カメラが映す、"結果としての"肉体」だけが批評の対象とされる。
それに抗う唯一の存在が根元アヤで、彼女は(元?)恋人であるショウに、「あるがままの自分=内面」を撮って欲しいと思っている。
そんな彼女だからこそ、この物語においては、自ら肉体を放棄せざるを得なかったのである。
「特権的肉体論」を掲げた唐氏の「肉体」が逝った直後に、本作が公開されたというのは、とてもエポック的なことではないだろうか。
果たして、これは批評だろうか? 或いは批判だろうか?
筆者の私には、「批判」の意図はない。
ここへきてこれまでの論旨を覆してしまうのだが、本作、「幻想譚」ではあると思うが「観念的」ではない。恐らく、作り手も「観念的」だとは思っていないだろう。
何故なら、本作パンフレットには、ショウとタエコの緻密なプロフィールが掲載されているからだ。
つまり本作は、周到に計画された物語だ。
それは、本作公開までの期間が4年もあり、その間にストーリーが全く変わってしまったことからも明らかだ。
従って本作は、ストーリーものとして順当な『カメラこそが真実だ』からアプローチされ、作り手の意図が検討され、結果が検証される。
このアプローチは、普段、我々が見ている「夢」と同じだ。
「夢」は、見ている自分ではコントロールできず、どんなに理不尽でも辻褄が合っていなくても、その「夢」の世界に従順にならざるを得ない(というか、無条件に納得・服従させられる)。そして、夢から覚めた後、(覚えていればだが)「あの夢は何だったのだろう?」とか、或いは「夢占い」的に検証されることになる。
つまり、『夢の中』というタイトルも、ちゃんと意味があり、その妥当性は正しい。
本作、批判する要素は一切ない。
以上、検証を終わる。
メモ
映画『夢の中』
2024年5月15日。@UPLINK吉祥寺(アフタートークあり)
つまり、「夢」がそうであるように、「夢」の中では「これはどういうことだろう」という思考には至らないし、仮にできたとしても、それに意味はない。
だから、本作の「正しい」(というものが、あれば、だが)観方としては、実は、本文に書いた高橋広吏氏のように「セリフが素晴らしい」というのが妥当なのではないだろうか。
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