映画『雨降って、ジ・エンド。』

映画『雨降って、ジ・エンド。』(髙橋泉監督、2020年。2024年劇場公開。以下、本作)を観ながら、時々溜息が出た。

フォトグラファーを夢見る日和(古川琴音)は、派遣バイトで働きながら、自分の写真をSNSにアップする日々。職場の上司ムツミ(新恵しんえみどり)の パワハラにうんざりしながらも、先輩の栗井(大下美歩)と密かに 仕返しすることぐらいしかできず、何者かになりたい気持ちを持て余していた。ある日、急な雷雨から逃れて忍び込んだ店で、顔にピエロのようなメイクをした雨森(廣末哲万ひろまさ)と出会った日和。思わずカメラを向けた彼の写真が思いがけずバズったことで、このチャンスに賭けようと一念発起し、街頭で風船を配るピエロ姿の雨森と再会する。雨森を利用するために接近したはずなのに、二人で過ごす自然体で穏やかな時間は、次第に日和の心をほぐしていく。日和はいつしか雨森に惹かれている自分に気づくが、彼の抱えるショッキングな秘密を打ち明けられ、事態は予想外の方向へ転がっていく--。

溜息が出たのは、どこにも行けず、もっと言えば、他の世界を希求しながらも「自分の力では、他の世界になんか行けない」という諦観(「親ガチャ」などは、その象徴)によって、各々がジレンマの自家中毒を起こしている世界に対してで、つまり、それが我々が生きている「現在」そのものだからだ。

自分の力では、他の世界になんか行けない」という(謎の)諦念を持っているからこそ、そこから出るためには、他人に見いだされるしかないと思い込んでいて、でもその「他人」はどこの誰とも知れず、もしかしたら(というか、もうほとんど、それこそ「諦観」のように)「実在しない者(モノ)」と思わざるを得ない「いいね」の数値に頼らざるを得ない。
その「いいね」は先述のとおり「実在を感じられない」が故に、発信者である自分自身も「実在」を感じる、或いは感じさせる必要はないと思っている。
だから、日常の「いいとこ取り」はもちろん、「やらせ」だろうと罪悪感を感じない。
それはもちろん、その射程がSNSなどによって「自分の与り知らないところ」まで至っていて現実感がないからで、だから、その揺り戻しとも云える「現実」は射程が極端にまで狭い。
だから「目の前の現実」を打破するために、フィクションとしか思えないことを本気で実行に移そうとしてしまう。
その、絶望的な距離感の逆転に、溜息が出てしまう。

その絶望的な距離感の逆転(という絶望)は、己の存在自体を罪と感じている男が、それを罰するために「ピエロ」というペルソナをつけて「現実社会」を生きることを自らに課していることにも伺える。

では、本作が「現実はディストピアだ」と、ある意味での「正論」を暴露している物語かといえばそうではなく、やっぱり希望を描いているのだ。

それは結局、「人はリアルな世界に生きている」ということで、喜びも悲しみも苦しみも、全ては自分が「リアルに存在する」からこそ体感できる。
トンネルの暗闇で少年たちにカラーボールを投げつけられた日和と雨森が、トンネルから駆け出してくるラストシーン。
暗闇から光の中に出てきた二人が鮮やかな色彩をまとっているのを見て、私はそこに生きる希望と歓びを感じた。

メモ

映画『雨降って、ジ・エンド。』
2024年2月17日。@ポレポレ東中野(アフタートーク付き)

劇中で雨森と日和が(酔って)口論するシーンがある。
「何も知らされず助けてあげられなかった後悔」を語る日和に対して、雨森が「"何も知らなかった"と云うが、(そこに至るまで)本当に"シグナル"は出ていなかったのか?」とただす。
このやりとりは終盤の「希望」につながる重要な伏線になっているのだが、現代において、この「シグナル」は大きく誤解され、それ故に大切なことを見失っているのではないか。
私はSNSをやらないので詳しくは知らないのだが、最近「マルハラ」という言葉を聞く。何でも「SNSなどにおいて、文末にマル("。"、句点)がついていると、怒っている/否定されているように感じる人がいる」ということらしい。
それなら非難/否定する場合、後でインネンをつけられそうな(或いは曲解されそうな)直截的な言葉を使わなくても、文末に句読点を打てば相手に「ちゃんと」伝わるんじゃないか、と皮肉も浮かぶのだが、それにしても、そんなことばかりがクローズアップされてしまうと、雨森の言う(そして本作が訴える)「(本来的な)シグナル」は、完全に見落とされてしまうのではないか。
人間が発する「シグナル」は、記号化できないのではないだろうか。

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