喫茶店文化「東の風月堂、西の六曜社」

以前書いた拙稿『三条堺町のイノダっていうコーヒー屋へね』のタイトルは、シンガーソングライターの故・高田渡氏の「コーヒーブルース」の歌詞から拝借し、本文でも高田氏のイノダコーヒー好きを紹介した。

しかし、高田氏は亡くなる直前の2005年に、雑誌のインタビューでこう答えている。

本当のご贔屓は35年以上通いつづけている京都の<六曜社>。(略)昔は東京にも、行けば誰かしら仲間に会える店があって、何軒も放浪してはコーヒー1杯で何時間でも話し込んだもんだよ

『BRUTUS』(マガジンハウス、2005年3月15日号)
※後述の『京都・六曜社三代記 喫茶の一族』より孫引き
太字、引用者

今でも喫茶店文化はあるが、もう高田氏が振り返る『行けば誰かしら仲間に会え』て『何軒も放浪してコーヒー1杯で何時間も話し込む』ようなことはなくなってしまった感がある。
そんなわけで、そのかつての喫茶店文化を京都の「六曜社」、東京・新宿の「風月堂」に関する本を引用しながら、振り返ってみたい。


京都・六曜社

高田氏が好きだった「六曜社」という喫茶店は、現在も営業している。

ビルがひしめく河原町通に面して営業している小さな喫茶店。1960年代にはとがった学生運動家や芸術家が多く出入りし、東京・新宿にかつてあった伝説の喫茶店になぞらえて「東の風月堂、西の六曜社」と言われたこともある。

『京都・六曜社三代記 喫茶の一族』(京阪神エルマガジン社、2020年)
※太字、引用者

六曜社の前身の喫茶店「コニーアイランド」がオープンしたのは1950年。
開店当初は鈍かった客足も、1年ほど経つと『長い戦争でコーヒーの味に飢えていた大学教師や学生が店を訪れるようになった』。

京都大学出身の作家・小松左京氏も常連の一人で、短編小説「哲学者の小径」に六曜社とおぼしき店が登場する。
また、同じく作家の瀬戸内寂聴氏も、まだ作家になる前の出版社勤めの頃からの常連だった。

最初は同僚に連れて行ってもらって、同人誌仲間とも行ったと思います。デートで男女がこっそりという雰囲気ではなくて、場所全体がおうちの台所みたいな感じで落ち着いてね。いつでもお客さんでいっぱいでしたよ。コーヒー一杯で何時間居ても怒られないし、お高い話はしないんだけども、大体似たような人がいました。ちょっと文学青年とか絵描きの卵とか、なんとなくお客がそうなるのね。

(同上)

この寂聴氏の証言は、冒頭の高田氏のインタビューとともに、当時の喫茶店文化を物語っている。
この『大体似たような人がいました』という喫茶店では、様々な出会いもあった。

例えば、京都生まれ京都育ちで『高校に入ってから、六曜社に通い始めた』画家の藤波晃氏の証言。

他大学の学生やら先生やら、出会いの場でもあった。哲学者の矢内原伊作先生なんかは毎日いたし、作家の堀田善衛や水上勉とも親しくなって

(同上)


1960年代、「学生の街」京都は安保闘争の影響などで学生運動が活発になり、六曜社もその流れに取り込まれていく。
六曜社の思い出を記した雑誌記事が、当時の様子をリアルに物語ってくれる。

地下室に通じる急な階段をよく上り下りした昭和35,6年頃(略)。
デモの帰りの挫折と虚無感にささくれ立った気分を癒すお定まりのコースであり、仲間との連絡を取り合う場が、この店だった。いつも誰かが待っていた。
携帯電話など存在しなかった時代である。マドンナ(引用者註:女性店員)たちは、すぐに客の顔と名前をおぼえ、どんな電話も確実に取り次いでくれた。六曜社と印刷されたメモ用紙が用意されていて、仲間からの伝言メモを手渡してくれる時、彼女たちの天真爛漫な笑顔に思わず胸がときめいたものだった。そこは、恋と議論と喧騒が渦巻く坩堝(るつぼ)だった。老いも若きも同じソファに詰めあって座った。人と人とが触れ合うことで別の何かが生まれる触媒のような場であった

「あまから手帖」 連載「青春の喫茶店」 2003年5月号 文/かど・たかま
※『京都・六曜社三代記 喫茶の一族』より孫引き

今はもう、『人と人とが触れ合う』こともなくなった。
誰かと知り合うことはおろか、仲間といても、それぞれ自分のスマホの画面を見つめたままで、会話さえしない。
もう、高田氏の記憶にある、あの頃の喫茶店文化はなくなってしまった。

僕の思い出は、もう<六曜社>にしか残っていないんだけどね

そうインタビューを締めくくった高田氏は、ほどなくして亡くなった。


新宿・風月堂

クラシック喫茶「新宿風月堂」は、1960年代を代表する新宿の文化装置であった。1946年から1973年の営業で、今は存在していない。場所は現在の新宿三丁目、大塚家具新宿ショールームの場所にあったとされる。

増淵敏之著『伝説の「サロン」はいかにして生まれたのか ー コミュニティという「文化装置」』(イースト・プレス、2020年)
※以下、『サロン』と略す

林哲夫著『喫茶店の時代 あのとき こんな店があった』(ちくま文庫、2020年)にはこう記されている。

新宿風月堂は、新宿駅東口(中央東口)をまっすぐ行った通りの右側にある、けっこう大きな喫茶店だった。若い芸術家やその卵たちの溜まり場としても使われていた店

林哲夫著『喫茶店の時代』

新宿三越裏の「風月堂」は午前十時開店前から御常連が待っています。ドアがあくととび込んで三〇円のコーヒーを注文します。夜の七〇円のコーヒーが朝三〇円で飲めるのです。(略)客は学生さんとか音楽家、新劇俳優、作家、詩人その他もろもろの一くせありげな皆々様、壁にくっついてうずくまっている。

清水雅人「東京の喫茶店」『机』紀伊国屋書店、1960年12月号
※『喫茶店の時代』より孫引き

その『一くせありげな皆々様』とは、どんな人たちだったのか。

山崎朋子がウエイトレスをしており、客には松山樹子、岡本太郎、野坂昭如、五木寛之、小田島雄志、天本英世らの顔があり(略)。山崎朋子は上笙一郎とここで出会って結婚した。

『喫茶店の時代』

その中には、滝口修造、白石かずこ、三枝成彰、三國連太郎、ビートたけし、(略)、栗田勇、岸田今日子、長沢節、朝倉摂、谷川俊太郎、安藤忠雄、寺山修司、麿赤児、若松孝二、高田渡、蛭子能収など、若き才能も集まっていた。
のちにノンフィクション作家となり『サンダカン八番娼館』などを著す山崎朋子は、ウエイトレスとして働いており、唐十郎はそこで台本を書いていたという。

『サロン』

風月堂には当時の東京という状況からか、新劇やアングラ系の作家や役者が多い。
唐十郎は風月堂にほど近い花園神社の境内で「紅テント」を建てて芝居を上演していたのだが、その台本を書いていたのだろうか。
谷川俊太郎や安藤忠雄など新進気鋭のアーチストもいるが、若松孝二や蛭子能収といった「ちょっと常識から外れた(しかし、才能のある)」人もいて、その中間的な位置にビートたけしがいた、という感じであろうか。

その状況は、きっとこんな感じだったのだろう。

天井からさがった大きなモビールがゆっくり揺れる店内に、とんがった、どこか正体不明風の連中(その代表が劇団四季にいた俳優の天本英世である)が、ちょっと気どった感じでたむろしていた。

(津野海太郎『おかしな時代 ー 「ワンダーランド」と黒テントへの日々」本の雑誌社)
※『サロン』からの孫引き。太字、引用者

そして風月堂もまた、学生運動/安保闘争という時代に飲み込まれていく。
しかし、『ちょっと気どった感じ』の連中がたむろしていた店であるが故、六曜社とは違う運命を辿ることになる。

それがやがて、新左翼の活動家や学生も出入りするようになり(略)。さらに、(略)永島慎二の代表作『フーテン』の中に登場するような人物も出入りするようになると、かつての芸術志向の喫茶店とはずいぶんと趣が変わっていった。
それにともない、常連客も店を離れていくようになり、1973年に戦後の新宿文化の象徴であった風月堂は、閉店へといたるのである。

『サロン』


冒頭の高田渡氏は、ここにも名前が挙がっている。
彼がインタビューで語った『昔は東京にも』には、きっと風月堂も含まれているのだろう。
そして続く『僕の思い出は、もう<六曜社>にしか残っていないんだけどね』という言葉は、かつて行きつけだった喫茶店が、六曜社以外みんな閉店してしまったということも意味しているのだろう。

高田氏というと「酒飲み」のイメージが強いが、「京都・六曜社三代記 喫茶の一族」によると、若いころは『下戸で、飲むのはもっぱらコーヒー。昼頃起きて、下宿から京都市内中心部まで歩き、「はしごコーヒー」をするのが日課だった』そうである。

その高田氏は冒頭のインタビューの中で、こう語っている。

僕にとって喫茶店はコーヒーの良し悪しじゃないんだ。そこに漂う空間や染みついてしまった時間なんかが好きなんだよ。


さしてSNS映えもしない、グルメサイトで高点数がつくわけでもない、可もなく不可もなくコメントする必要もないありきたりの味で、高くもなく安くもない、味に見合ったフツーの値段のコーヒー。

でも目的はコーヒーを味わう”コト”(だけ)じゃない。

ただそこにいる”コト”、何もしない”コト”、自分の吐いた煙草の煙が中空を漂うのをぼんやり眺めながら物思いに耽る”コト”、窓ガラスに映る自分の顔を見ながら「このままで良いのか」と自問(自悶?)してみる”コト”、仲間と熱い議論を闘わせる”コト”、気付いたらその議論に知らない人や何故か店員までが混じっていた”コト”、その知らない人らといつの間にかつるむようになっていた”コト”、店員や常連客を好きになった”コト”、他人の別れ話に耳をそばだてた”コト”、自分たちも別れ話をした”コト”(その日は「白い雪の夜」だったかも)……そんな無為な時間を飽きずに繰り返した”コト”…

かつて、そんな様々な”コト”を重ねて『漂う空間や時間が染みついてしまった』ような、風情のある喫茶店が日本の至る所にあった。

今、世の中は「”コト”消費」の時代だという。
そんな時代の中で、『漂う空間や染みついてしまった時間』を作った、かつてそこにいた大勢の人たちの”コト”も消費されていくのだろう。
「風情のある喫茶店」にやって来て、ただ写真や動画を撮ってネットにアップし、グルメサイトに評点とコメントを書き込む。そして再び訪れることはない…

そうやって”コト”を消費することしか知らない人々は、もう新たな『漂う空間や染みついてしまった時間』を作ってくれはしない。
そうして消費され尽くしてしまった喫茶店は…



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