時代は進み、「分断」も進む~舞台『ミネオラ・ツインズ』~

舞台『ミネオラ・ツインズ』(ポーラ・ヴォーゲル作、徐賀世子訳、藤田俊太郎演出。以下、本作)は、そのタイトルどおり、アメリカ・ミネオラを舞台に全く性格が異なる双子姉妹を主人公に、アメリカの第二次世界大戦後の戦後史を描いた作品だ。
「ツインズ」というからには単に双子だけでなく、作品のことごとくが「ツイン」になっていて、俳優が2つの役を演じているのもその一つだ。
主人公の双子マーナとマイナを大原櫻子が、マーナが17歳の時の恋人ジム(男性)とマイナが51歳の時の恋人サラ(女性)を小泉今日子が、マーナの息子ケニーとマイナの息子ベンを八嶋智人が、それぞれ演じ分ける。
さらに、客席までもが中央の舞台を挟んで二分されているという徹底さである。

本作のサブタイトルは「A Comedy in six scenes,four dreams and (at least) six wigs(六場、四つの夢、(最低)六つのウィッグからなるコメディ)」。
小泉と八嶋は基本的に各場で1人しか演じないが、主役の大原は同じ場で(時には舞台上で下着姿になって着替えながら)マーナとマイナを演じ分ける。90分の作品とはいえ、この演じ分けはとても大変だろう。
だが、観客はマーナとマイナで混乱することはない。その仕掛けが「ウィッグ」、つまりカツラであり、さらに「バストの大きさ」によって視覚的に区別することが可能である。


上述のサブタイトルに「コメディ」とあるが、これがなかなか難しい。
つまらないわけではない。
確かに、馴染みのないアメリカ戦後史を背景に、アメリカンジョークが飛び交うことが壁になっているのは否めない(無料パンフレットのみが配布されたのだが、その意味では、時代解説や用語集のようなものを無料配布してパンフレットは有料でも良かったのではないか、とも思う)。

さらに、昔のジェンダー感にも引っ掛かる。
物語早々、マーナの恋人・ジムが堂々と「女性は資格なんか持たなくていい」「女性は働く必要がない」と言ってのけるが、1950年代当時のエピソードとしてジムの発言は常識中の常識だったことは頭では理解できるのだが、2022年にほとんど説明もなくこの御託を並べられると、かなりの拒否反応がある。
その御託は1970年生まれの私にとってもある意味「馴染みある常識」ではあるが、それでも引いてしまったということは、それを知らない若い世代は、拒否反応かはともかく、「何を言っているのか?」と理解できなかったかもしれず、物語への導入を阻んでしまった可能性はある。

だが、それ以上に物語への共感を困難にしているのは、1996年に初演されてから四半世紀を経た今、作者が本作に託した希望が打ち砕かれてしまっている事実を観客が知っていることだ。


本作の設定自体はとてもわかりやすく、端的に云えば「保守対リベラル(ウーマンリブ)」の確執である。
マーナは徹底した「保守」、つまり「女性は慎ましやかであり、結婚するまで貞操を守らなければならない」「中絶は罪であり悪である」という旧態依然の考え方。
対するマイナは「ウーマンリブ」の立場を取り、性に奔放であり、最終的にレズビアンとなりパートナーのサラとともに、女性が選択的生き方ができるよう中絶のための施設を運営するまでになる(その対立にあって、マーナの方が豊かなバストを持っているというのは興味深い)。

本作、1995年の初演時の時代の気分からか「リベラル」側に寄っている。

最終盤は1989年が舞台となるが、ここでは「保守の鬼」と化したマーナがマイナたちが運営する中絶施設を爆破しようとする場面が描かれる。
つまり、その時点では保守が主張する「正義」が先鋭化し、「法を犯してもその正義は守らねばならないし、そのための行為は正義の名のもとに正当化される」と盲信してしまう状態にあったことを、本作は描いている。

ラスト、爆破においてマイナを巻き添えにしかけたことをきっかけに「姉妹の和解」が示唆される。つまり20世紀末においては、「姉妹の和解」への希望があったということになる。

しかし、21世紀も20年以上が経過した現在において我々が目にしているのは、「姉妹」が和解どころか深い分断・断絶にあり、互いに(醜いほど)攻撃し合っている、という現実である。
さらに、かつてのマーナ側の思想であった「法を犯してもその正義は守らねばならないし、そのための行為は正義の名のもとに正当化される」は、そのままマイナ側の思想にも当て嵌まってしまったことも、すでに露呈している。


また、本作最終盤では上述のとおり、マイナは同性愛者としてサラという女性と付き合っていることから、ジェンダー問題も示唆している。

この時、物語上の時代は1989年ではあるが、本作初演と同時期に、やはり同性愛者であった古橋悌二氏(1995年10月にHIVによる敗血症で逝去)が、こんな発言をしていた。

例えば、ホモセクシャルとかレズビアンとかは、どうして自分はこういうセクシュアリティを持っているのか、ずっと考えてきてるわけですよ。で、悩みながら生きてきたけど、ヘテロセクシャルの人は悩んだことがないから、とまどいみたいなものは絶対最初にあると思うんだけれど、でも、それを考えていくうちに「なんや結局一緒やん」ていう段階まで至ったときに得るものが大事だと思ってますけど。だから、ゲイ、ヘテロって完全に分けて、なんかこう、喧嘩みたいにしてて、その立場が逆転したりするっていうようなことはよくないと。いわゆるアメリカのPC(ポリティカル・コレクト)っていう動きがそれに近いんだと思うけど、マイノリティがマジョリティを、逆に今まで抑圧されてきたぶんをうさばらしのように抑圧し返すみたいな関係になると、立場が逆転するだけで、結局競争っていう原理には変わりがなくて、どっちが上かどっちがえらいか、どっちが人生について長けているとか。

「1995年2月、浅井隆によるインタビュー」
『メモランダム 古橋悌二』(リトルモア、2000年)所収

古橋氏は『初期のフェミニズムもそういう部分がありましたけどね。女のほうが強いとか。そういう意味ではアフターPCを考えている人が世界中に増えてきてると思う』と続けるのだが、増えてきたとは言え、残念ながら現在は、『今まで抑圧されてきたぶんをうさばらしのように抑圧し返すみたいな関係になると、立場が逆転するだけで、結局競争っていう原理には変わりがなくて、どっちが上かどっちがえらいか、どっちが人生について長けているとか』のマウントの取り合いが醜いくらい激化した揚句、深い分断に陥っている状況が深刻化している。


本作に戻ると、最終盤の1989年を生きるマイナとその恋人サラは、自身の正義を盲信するマーナに比べ「まとも」に見えるし、きっと彼女たちは「純粋なリベラル」を、盲信ではなく希望として信じているだろう。
その希望はきっと、「大衆が信じてくれれば、世界は変わる」ということであり、実際、古橋氏と同じように『アフターPCを考えている人が世界中に増えてきてる』のを感じてもいたはずだ。

33年後の2022年。
「リベラル」「ジェンダー問題」は「多様性」という言葉とともに大衆に浸透した。しかし、上述のとおり、その結果(或いは「過渡期」としての経過)がどうなのか、我々は知ってしまっている。

マーナとマイナの双子姉妹が実在すれば84歳くらいになっているはずだ。
その彼女たちは、この絶望的な分断をどう見ているだろう。
笑ってはいないはずだ。


(2022年1月8日。@青山・スパイラルホール)



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