映画『グッドバイ』

娘にとって「父親」とは、どういう存在なのだろう?
私は男で、しかも家庭を持ったことがないので、全く想像がつかない。きっと息子にとっての「母親」とは、全然違うものなのだろう。

私個人でいえば、母親に「女」を見たことはない(少なくとも記憶にある中では)。かつてネガティブなイメージで語られた「マザコン」においても、きっと彼らは母親の中に「(大人の)女」を見ていたわけではないだろう。
息子が母親に見ているのは「女性」ではなく「母性」ではないだろうか。

しかし、もしかしたら、娘は父親の中に「(大人の)男」を見ているのかもしれない。

映画『グッドバイ』(宮崎彩監督、2021年)を観ながら、そんなことを考えた(2021年4月3日。@渋谷ユーロスペース。初日舞台挨拶あり)。

主演は福田麻由子。新人監督の宮崎は、福田の1歳下。
映画は、2人がまだ20代前半だった3年前に撮られた。

福田演じる上埜さくらは母親と2人暮らし。父親とは離れて暮らしている。
仕事に対する虚無感から退職したさくらは、友人の頼みで、一定期間、保育園で働くことになった。
そこで、遅い時間に娘を迎えにくる新藤と出会う。どうやら彼はシングルファーザーらしい。

さくらは新藤のことが気になるが、それは純粋な「恋」なのか。それとも新藤に「父親」を重ねているだけなのか。

主人公のさくらは宮崎監督が福田に「あて書き」したそうである。
劇中、さくらは友人に「さくらは何でもできる」と言われる。
福田も、幼い頃から「名子役」として数々の作品に出演し、近年もNHKの連続テレビ小説「スカーレット」や、映画「蒲田前奏曲」など様々な役で評価を受けており、確かに「何でもできる」ように感じる。

しかし、宮崎監督が「あて」たのは、そういった表面上のことではない。

福田もインタビューやパンフレットなどでコメントしているが、その時期、自身の「人生そのもの」に「迷い」のようなものがあったという。
「スカーレット」や「蒲田前奏曲」では、「一見ふんわりした雰囲気の中に確たる芯がある」という役柄だったが、宮崎監督はその中に「確たる、ではない、揺らぎ」を感じ取ったのではないだろうか。
「何でもできる」が故の、「何がしたいのかわからない」という不安定感。


娘が父親に「(大人の)男」を感じるのかもと思ったのは、さくらが新藤に「父親が吸っていた煙草の匂い」を嗅ぎ取ったという点で、エピソード的には、当時20代前半の女性が書いたにしては少し古いかなと思ったのだが、実はこれがラストシーンの伏線となっていた。

最終盤、さくらの母親が家を手放す決断をし、その手続きのため父親(家の名義は彼)が久しぶりに帰ってくる。

長い独り暮らしで料理をするようになった父親に驚くさくらは、食後の洗い物をする父親の背中に近づいていく。

そして迎えるラストシーンの刹那。
たまらなく切なくなった。


映画は「揺らぎ」とグッドバイする物語でもある。

さくらは父子家庭である新藤の家に夕食を作りに行く。
それは自分の気持ちを確かめることでもあった。

だが、さくらが自身で行動に移したのは、それくらいである。
グッドバイは周りから容赦なくやってくる。
住み慣れた家とも…
そしてそれに伴い、きっと父親とも…
もともと本職ではない(なれない)保育園の仕事とも…

保育園最後の日、帰り挨拶で新藤の娘がさくらに言う。
「またあした、まちがえた、バイバイ」

グッドバイしても、すぐに気持ちや身体が切り替わるわけではない。
幾日も「またあした、まちがえた、バイバイ」を繰り返し、やがて本当にグッドバイできるのかもしれない、と思った。


渋谷ユーロスペースで公開中。順次全国で公開予定。




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