映画『きみが死んだあとで』を観て思った取り留めもないこと…(感想に非ず)

以前の拙稿に「「あのころ、早稲田で」中野翠の闘争」というものがあって、中野翠著『あのころ、早稲田で』(文春文庫、2020年。以降『あのころ』と表記)からの引用をベースに、60年代後半の学生運動について書いた(何度か加筆・修正をしている)。

そこでは引用しなかったが、1967年の章にこんな文章が綴られている。

ベトナム戦争は拡大するいっぽうだった。(略)
十月の初め、佐藤首相の南ベトナム訪問を「戦争介入につながる」として実力で阻止するために、反代々木系(略)の学生たちによる大規模なデモが二度にわたって展開された。
十月八日には、学生たち二千五百人が羽田空港付近で警官隊と衝突。激しい混乱の中で京大生・山崎博昭君が死亡(その後、彼の死因をめぐって論争に。学生同士の混乱の中で死んだという見解と、機動隊員にめった打ちされて死んだのだという見解と。いずれにしても痛ましいことだった)。重軽傷者数百人、検挙者五十八人(第一次羽田事件)。佐藤首相は南ベトナムへと旅立った。

『あのころ』


映画『きみが死んだあとで』(代島治彦監督、2021年。以降、本映画)は、その山崎博昭さんについての関係者のインタビューを基に、学生運動、とりわけ「全共闘世代」を見つめ直したドキュメンタリーである。
主に山崎さんの生い立ちから死亡するまでを追った上巻(96分)と、山崎さんの死亡から学生運動の衰退~21世紀の現在までの変遷を描いた下巻(104分)で構成される。

本稿は、本映画の紹介・解説ではなく、上記拙稿の続編を意識しながら、私個人の思ったことを取り留めなく書く。
なお、特に記載なき引用は、本映画のパンフレットに掲載されている「採録シナリオ」からである(『香港画』を除く)。


山崎さんの死

山崎博昭さんは1948年生まれ。1967年に大阪府立大手前高校から京都大学へ進学し、中核派に加盟。
同年10月8日に東京羽田の弁天橋で、学生のデモ隊と機動隊の衝突の中で亡くなった。

それから半世紀以上が経ち、我々は香港やミャンマーでの出来事について、テレビやネット越しに「遠い他所の国の出来事」と感じるようになったが、しかし、山崎さんの死は、日本もかつて「そういう国」だったことを物語る。


上記引用で中野は『彼の死因をめぐって論争に』と書いているが、そうなっってしまったのは、いくつもの偶然が重なったからだ。

当日、山崎さんは『弁天橋手前の防衛ラインに配置された』。
機動隊はデモ隊の突入を阻止するため、羽田空港へ通じる弁天橋を封鎖していた。バリケードではない。装甲車でだ。
デモ隊は装甲車の屋根に上ったり、橋の欄干を伝い歩くなど、突破を試みた。そこで誰かが、装甲車の鍵がついたままなのを発見する。
学生たちは装甲車の窓ガラスを割り、車内へ侵入する。

装甲車のマイクからかなあ、要するに、装甲車を奪ったっていうね。これから装甲車で突っ込むって言ってね、

装甲車がずーと前に移動した瞬間、全部空いた訳ですよ、そこが、装甲車のあったところが、

で、機動隊が橋の向こうに見えてて、向こうからぶわーと一斉に走りはじめて、機動隊が、で、直前に来たところで、向こうから警棒抜いて走ってきたわけでないから、いきなりパッと抜いて殴りかかかったイメージですわ、残ってるのが。

その橋の近い方の学生に最初に警棒が振り下ろされた、そのうちの一人が山崎だったということになる訳ですよ。

つまり、中野が書いている『学生同士の混乱の中で死んだという見解』というのは、「学生が奪った装甲車に巻き込まれた」ということで、もちろん、それは学生側に不利な状況証拠を巧みに利用した警察発表だ。

だが当然、もう一つの『機動隊員にめった打ちにされて死んだのだという見解』にも状況証拠はある。

上巻の最初、山崎さんの検死に立ち会った兄がこう証言している。

3人かな、4人かな、白衣の医師が入ってきて、(略)きれいな遺体やねって話はしはった、それは覚えてる。

あとでよく問題になったタイヤ痕、ギザギザのこういうやつね、幅が10センチとか20センチとか言われたけど、何もないきれいな身体。

最初に検死した医師も、映画『現認報告書 羽田闘争の記録』(小川紳助監督、1967年)で『致命傷は「やっぱり頭」』として、こう証言している。

(血は)身体からは出ていない、全然出てない。だから、ほんとに私もちょっと、装甲車に轢かれてもこんなに傷にならんもんかなあと自分でも、

同映画では目撃者の証言も撮られている。

(弁天橋上の学生たちは)欄干の方に押し寄せられると、ほとんど棍棒で殴られて、ほとんどの学生が川へ飛び込む、ないしは落とされるという状態(略)。ところが、ただ一人そこで、山崎君が残る訳です。(略)上から2人くらいの機動隊がかかって(略)正面から叩いたんではなくて、横から叩いたような形になったと思うんですが、(略)5、6回叩くと、相当な力で殴っているように見えました。すぐに血がもう顔面バアっと出ちゃってね、でもうそれ以降は誰かわかんないくらいの血の量になっちゃった

この光景は現在、我々が目にしている香港やミャンマーの暴力による市民への弾圧と重なって見える。


山崎さんの死の衝撃

山崎さん死亡のインパクトは、上記で見たような警察の対応などもあり、社会的に大きな衝撃を与えた。
その前後に全共闘に参加していた人々からのアンケートで構成された『全共闘白書』(新潮社、1994年)でも、多くの人達が「印象的な闘い・事件」の問いに「10・8 山崎の死」と答えている。中には「運動参加の理由」として挙げる人たちもいる。


余談1:作家・三田誠広氏

本映画では、大手前高校で同級生だった人たちの証言が多いが、その中に作家の三田誠広氏もいた(三田は高校時代1年間「引きこもり」で休学しており、10・8の事件時はまだ高校生だった)。三田は、学生運動をテーマにした『僕って何』で1977年上半期芥川賞を受賞しているが、それ以外にも多くの作品で学生運動が登場する(教科書にも採用された『いちご同盟』(集英社文庫、1991年)でも主人公の父親が過去に学生運動に参加していた)。
三田の『ペトロスの青い影』(集英社、1991年)には、こう書かれている。

高校時代の私は、テレビもろくに見なかった。首都で学生たちが、角材などを手に、機動隊と衝突を繰り返していることは知っていた。空港近くのデモで、死者が出た。自分とは無縁のことだと思った。

『ペトロスの青い影』

なお、三田の『高校時代』(角川文庫、1980年)は「O高校」が舞台の小説だが、文庫用あとがきにモデルとなった同級生が明かされている。本映画のパンフレットを照合すると、映画/小説がよりリアルに感じられる。


学生に味方する「世間の風」

さて、山崎さんの死をきっかけに、学生運動とは無縁だった大衆も学生側を応援するようになる。

10・8以降の大きく変わったことの一つは、大衆の中に闘争参加意欲と同時に、暴力に対する一つのあこがれじゃないんですけども、許容する気持ち

たとえば、1968年1月17日~21日の長崎県・佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争。

だんだん味方(佐世保の街の人)が増えてきて、みんな応援してくれるんですよね。(略)それで学生がね、敷石なんかはがして機動隊に投げるでしょう、そしたら周りの人もみんなはがして、くれるんですよ、石を、私に。普通のおばさんが「よかよか、石んごたる、なんぼでもあげれ」とか言って。


余談2:つかこうへい作『初級革命講座 飛龍伝』

市民が投石用の石を集めてくれたということだが、たしかどこかの闘争では石を売る人が出現したということで、そのニュースをヒントに出来た芝居が、つかこうへい作『初級革命講座飛龍伝』(1973年)ではなかったかと思う。

ひとつの新聞記事を見たのがきっかけだったんだ。石売り屋というのが学生運動の現場にいたっていうんだよね。投げる石を磨いて『いい石ありまっせ』と言って学生さんたちに石を売っていたって。そのたくましさと生命力に突き動かされたんだな

『つかこうへいの新世界』(メディアート出版)
※舞台『飛龍伝 2010ラストプリンセス』(主演:黒木メイサ)のパンフレットより転載

初演では『初級革命講座』だったタイトルは、その後の地方公演を経て変化した。
長谷川康夫著『つかこうへい正伝』(新潮社、2015年)によると…

芝居が出来上がる中で、劇中に主人公が隠し持つ投石用の石が登場し、その名を「飛龍」としたところから、タイトルもまた(略)変更されたというわけだ。

『つかこうへい正伝』

『飛龍伝』というと、後述するようなアイドル女優主演の芝居を思い浮かべがちだが、まったく別物である。

断っておかなければならないのは、『初級革命講座飛龍伝』は九〇年代以降、つかが若い女優たちを使って繰り返し上演した『飛龍伝』とはまったく別の作品だということである。もちろん『飛龍伝』は『初級革命講座飛龍伝』をベースとして生まれた作品ではある。しかし物語が、女性活動家と機動隊員のラブストーリーに特化してしまい、つかが最初の作品に込めた思いも、演劇的な奥深さも、「初級革命講座」のタイトルとともに、消えてしまっている。

『つかこうへい正伝』

現在の『飛龍伝』においては、上記で引用した「2010」の10年後に上演された「2020 」(主演:菅井友香(欅坂(現・櫻坂)46))の劇中、全共闘の前委員長・桂木純一郎が羽田闘争で投げた伝説の石「飛龍」として登場する。

ちなみに、ヒロイン・神林美智子役の歴代女優としては、公式的には「2010」の黒木メイサが 6代目、最新「2020」の菅井友香が8代目になるそうだ(私は、初代(1990,91年)・富田靖子以外すべて観ている。公式に含まれないものとしては、たとえば黒木華の神林美智子も観たことがある)。


闘争の激化

10月8日の「第一次羽田闘争」をきっかけに、ベトナム戦争反対の運動は、学生だけの活動から一般市民への広がりを見せ始めたかに思えたが、結局、大きなうねりには至らなかった。

何故なら、闘争は激化・先鋭化していくからである。

佐藤首相が翌月12日に訪米する際、前回よりも激化した闘争が起きた(第二次羽田闘争)。
学生側が「山崎さんの弔い合戦」の意気込みで『それはもうかなり気合入れて』いて、当然、機動隊・警察側もそれを迎え撃つ気持ちでいたからだ。

あのときはね、機動隊の方も、警察の方も気合い入ってましたね、最初からとにかく、こいつら粉砕してやるって感じできましたからね。ちょっと殺気を感じたですよ、これは身がほんまに危ないなあっていう感じが。


ところで、羽田闘争については中野翠が重要な指摘をしている。

羽田事件は、活動家たちのいでたちを変えた事件としても知られている。学生たちはヘルメットに角材(ゲバ棒)、機動隊は大盾を使うというスタイルが定着していった。
以降、学生運動はより過激化してゆく。あげくの果てが連合赤軍なのだった。自滅への道……。

『あのころ』

事実そうである。本映画によると、過激化と自滅への道の下地は既に10・8の時点であったようである。

10・8では、大量のプラカードを作っている。それは最初から武器として使用する意図だったのだが、そのことは少数の人しか知らされておらず、大多数の学生は「デモ」のつもりで参加していた。しかし、11・12では、全員が「闘争」の意識を持っていたということだろう。

その少し前に、すでに東京で勢力を持つ「三派全学連」(「社学同」「社青同解放派」「マル学同」)に亀裂が入っており、「ちょっとしたリンチ事件」まで起こっていたという。


余談3:中野翠の11・12

中野翠は当日の様子をこう書いている。

私と、クラスメートの女子S子さんはジッとしていられず、「遠巻きに学生たちを応援したい」というハンパ気分だったが、蒲田で電車を乗り換え、羽田近くの、確か大鳥居駅で下車。デモ隊をみつけるべく糀谷なる地名の住宅密集地域の狭い路地をうろついていたら、ダダダと走る音がして、学生らしき男子が次々と駆け抜けてゆく。明らかにあわてて逃げている様子だった。私たちは急におそろしくなって、早足で駅へと戻ってしまった。

『あのころ』

機動隊についても、中野は蒲田で生まれ育った友人の証言を紹介している。

「駅前を機動隊の車が占拠して、通り過ぎて行ったのよ。その中でも8の数字のある車がこわかった。"みなしごハッチ"のマークをつけていて、何だかとてもブキミな感じだった」

『あのころ』

"みなしごハッチ"のマークをつけていたのは「第八機動隊」。

「八機」と言ったら、乱暴さに定評があって、活動家諸君の間でも怖れられていたのだった。(略)子どもにも恐怖をあたえる特別のオーラがあったのか、と驚いたのだった。

『あのころ』


余談4:高野悦子さんの羽田闘争

11・12では、京大からの参加人数は半分ほどに減ったそうである。しかし、当時立命館大学の学生だった岩脇正人氏の証言によると『立命は倍になりました』とのことである。

そこで、立命館大学で岩脇氏の同級生にあたる高野悦子さんの『二十歳の原点序章ー'66.11.23~'68.12.31ー』(新潮文庫、1974年)を開いてみたが、10・8の言及はなく、11・12についても当日の日記に『佐藤首相訪米、羽田付近ではなばなしく乱闘。三〇〇余人が検挙される』の一文があるのみだった(高野さんは当時民青。羽田闘争の中心は全学連)。


学生運動の敗北と内ゲバ

学生運動は、1969年1月18日・19日の東大安田講堂陥落を経て一旦拡大していくが、同年11月16日・17日の『佐藤首相が日米安保条約継続を協議するための渡米を阻止する闘争』(実質的な「70年安保決戦」)で敗北する。

当時の東大全共闘代表・山本義隆氏は本映画でこう証言している。

もう全部11月決戦に向けて、そこで一大決戦を構えてたんですよね、それで軍事的に負けたんですよ

そして、1967年の羽田闘争の頃から燻っていた「内ゲバ」が顕在化し、激化する。
それに愛想を尽かせた学生がどんどん離れていく。
山本氏の証言の続きを引用する。

その内ゲバの問題が、それ以前からそれはあったけどね。腐敗の元みたいなのはあったんだけれども(略)。出てくるのは11月決戦の後の、要するに敗北の後をどうするかという問題で(略)ああいう形で党派闘争になったっていうのは(略)未熟だったというか、悔やむ面もありますけどね(略)俺らに力なかったんかなあっていう思いはありますけども、ただあれだけの大衆的な広がりをもった時期があったんでね

ついに1971年12月4日、関西大学構内で革マル派が中核派を襲撃し、京大・辻敏明さんと同志社・正田三郎さんが殺害される事件が起きた。
それを受け中核派は、『虐殺に復讐を!カクマルをせん滅せよ』と同志を煽った。
その後、激しい内ゲバが繰り返され、先述の中野の言葉どおり『自滅への道』をまっしぐらに突き進み、最終的に1972年2月の連合赤軍による「あさま山荘事件」とその後発覚した「山岳ベース リンチ殺人事件」により、学生運動は急激に衰えていく。
それは、連合赤軍の一連の事件に、大衆が、今の言葉で言えば「ドン引き」したからである(その辺は前稿でもう少し詳しく書いてある)。


参考:映画『香港画』

なぜ日本の学生運動はこんな結末を迎えてしまったのか?
当事者だけでなく、それ以外の人々も、各々が様々な意見や思いを持っているだろう。

私は、本稿で何度か「香港」という言葉を出しているが、それは、本映画を観ながら映画『香港画』(堀井威久磨監督、2020年)を思い出していたからだ。

両映画は半世紀の隔たりがあるため使用している道具(武器)は進化しているが、しかし、人々がやっていることは、ほとんど同じに見えた。

違いがあるとすれば、それは「切実さ」ではないか。
香港のデモは、「自分の人生」と直結している。
しかし、日本の学生運動は、言い方は不適切かもしれないが、所詮は「他人事」だったのではないだろうか。
「良し悪し」の問題ではない。
「切実さ」に大きな隔たりがあるのだと思う。

参考までに、映画『香港画』のパンフレットに寄稿された、立教大学法学部・倉田徹教授による「香港危機:2019年11月までの道のり」から、香港のデモの経緯を見てみる。

少なくとも2018年の年末までは、香港政治は無風状態だったと言って良いだろう。社会運動は動員力を失い、議会内での民主派の抵抗は力不足を露呈し(略)
突然の危機のきっかけとなったのは、2019年2月に政府が発表した「逃亡犯条例」改正の提案であった。

その前年に、19歳の香港人青年が、20歳の恋人と台湾を旅行した際、青年が口論の末に恋人を殺害し、死体を台湾に遺棄したまま香港に逃げ帰るという事件が起きた。
本来は香港政府が容疑者である青年の身柄を台湾へ引き渡すのが筋だが、現行の「逃亡犯条例」ではそれができない。
そこで、身柄の引き渡しができるように同法を改正しようとしたところ、香港市民の抵抗運動が勃発した。

…と書いても、恐らく日本人にはその真意が容易に理解できまい。だって、この改正がなければ、殺人犯は法の裁きから逃げおおせることになる。

香港人が「逃亡犯条例」改正を嫌った理由。
それは、香港という都市の成り立ちと密接な関係がある。

香港の人口の多数派は、第二次大戦後に中国大陸から難民として逃れてきた者と、その子孫である。(略)香港人はいわば、共産党政権から逃れ、共産党支配下の中国ではできないことをやるために、香港にたどり着いた「逃亡犯」なのだ。(略)
この改正が行われれば、香港人は恐怖の下で暮らさねばならなくなる。

そもそも「香港以外の中華人民共和国」には容疑者を引き渡さないとの「逃亡犯条例」の規定は、(略)香港市民を恐怖に陥れないために、意図して作られた規定だったのである。多くの香港人にとって、「逃亡犯条例」の改正は、犯罪者という他者が裁かれることではなく、不寛容な政権によって自分が「逃亡犯」として裁かれることへの切実な恐怖だった。


日本の学生は「ベトナム戦争」や「日米安保条約」を、自身の切実さとして感じることができただろうか。
自身の切実さを実感できたのは、せいぜい「大学紛争」くらいで、だがそれは「命を懸ける」までの『切実さ』だっただろうか?


メモ

本映画は、2021年5月1日に渋谷・ユーロスペースで観た。
三度目の緊急事態宣言発出中で、数日前には営業を続けると宣言した寄席が政府のやり玉にあげられ、自粛を余儀なくされた。
映画館も大手シネコンを中心に軒並み営業中止する中、ユーロスペースは定員を50%に制限して上映を続けていた。
当日朝11時半にJR渋谷駅に着いた私は、スクランブル交差点の方には出ず、マークシティを通ってユーロスペースのある円山町に向かった。
マークシティ内の店舗はスタバを含め休業しており、わずかにコンビニが1軒営業しているだけだった。
人もまばらで、それは終電後の光景を思い起こさせた。
円山町周辺も静かだったが、ユーロスペースは満席に近い状態だった(上述のとおり通常の50%の定員)。
それは、1日1回限定上映で、しかも毎月1日の割引のためだと思われるが、もしかしたら、渋谷で外飲みする若者と同じ感覚で来た人も交じっていたかもしれない。

映画『香港画』は、2021年1月30日にアップリンク吉祥寺で観た。
たしか、午前中に新宿・シネマカリテで深川麻衣主演の『おもいで写真』(熊澤尚人監督、2021年)をオンライン舞台挨拶付きで観た後だった。



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