岩城けい著『さようなら、オレンジ』

私の大切な友達のことを書こう、書かなければならない。

岩城けい著『さようなら、オレンジ』(ちくま文庫、2015年。以下、本書)を初めて読んだとき、最終章のこの一文に出合い、鳥肌が立った。
大袈裟ではなく、「これこそ文学だ」と思った。
冒頭に引用した言葉は、いわばこの物語の「タネ明かし」に当たるが、本書はミステリーではない。
だから犯人や何かの謎がつまびらかになるわけではない。
そもそも犯人や何かの謎など一切ない……はずのものが、冒頭に挙げた一文によって全てのピースが合い、それまでそんなものが存在するなど想像だにしなかった物語の全貌が一気に現出するのだ。
その瞬間に立ち会った私は、鳥肌が収まるまで、その一文を凝視し続けた。

『何かの謎など一切ない』と書いたが、それは嘘だ。
物語中に「謎」は提出されており、冒頭の文章はその「謎解き」に当たるが、それは「謎」が提出されたときからの「想定通り」のものだったとも云える。
しかし、というか、だからというか、本書はミステリーではなく、単なる犯人や謎という「トリック」ではなく、この物語とそれを構成する文章自体が「ギミック」なのである。

本書の主人公は、オーストラリアに移住してきた女性二人、と言っていいと思う。
二人は別々の国から来たが、共通するのは「母語ではないコミュニケーションに苦労している」ということと、それ以上に「自ら望んできたわけではない」ということだ。

アフリカ人のサリマは、故郷の内戦を逃れて夫と二人の幼子とともにオーストラリアに来た「難民」である。
一方、日本人のサオリは、現地の大学に職を得た研究者の夫に付き添って移住してきた。自身も大学で学ぶほどの(語)学力を持っている。

難民のサリマは、言葉が通じずスーパーマーケットで肉を解体しパック詰めする仕事にしか就けなかった。そこには同じような難民たちが働いていたが、サリマは持ち前の真面目さと「いつかここから抜け出そう」という向上心から、仕事と育児の合間を縫って、少ない稼ぎをやりくりしながら、町の語学教室に通い始める。
そこで、サオリと出会った。

本書の「ギミック」は、至る所に、「わかるように」仕掛けられている。
たとえば、サリマの物語は明朝体・三人称で書かれるが、サオリについては「ジョーンズ先生」に宛てた手紙という体裁でゴシック体・一人称で書かれる(しかもサオリの重要な部分については、英文電子メールの体裁で"報告"される)。
サオリの近況報告と言っていい手紙には、彼女がジョーンズ先生から執筆を勧められた”Francesca"というタイトルの小説が思うように進展しないことが綴られ、さらに語学学校で知り合ったナキチという難民女性のことが記される。

私は、それらに引っ掛かりながらも、それが気にならないほどに物語にのめりこんでいた。
おそらく、私以外の読者もそうだと思うが、とにかく、それほど本書は読ませる文章・物語である。だからこそ、最終章に圧倒されるのだ。

鳥肌が収まったのを確認して、私は続きを読み始め、やがて読了した。

全ての「ギミック」は、小説内で提出されていた。
しかし、本書のカタルシスは、「伏線の回収」でも「暴かれたトリックや犯人」でもない。

私は、これまで味わったことのない充足感に浸りながら、ふと思う。
本書の中で、サリマが息子の学校のクラス担任に依頼されて書いた「サリマ」は創作なのか、現実なのか。
サリマが心の中で「ハリネズミ」と呼んでいる、共に語学学校に通う日本人女性は誰なのか?

そんなことを考えているうち、創作か現実なのかの想像は、本書自体にまでたどり着く。
本書の著者・岩城けい氏はオーストラリア在住の作家だ。
物語中のサオリはジョーンズ先生に小説の執筆を勧められている。
語学学校に通う日本人女性の「ハリネズミ」とは、一体誰なのか?
……本当に、全ての「ギミック」が露出していたのだろうか?

私は一体、誰の小説、誰の物語を読んだのだろう……
頭の中の疑問と、それ以上に全身に満ちる高揚感に抗えず、私はまた、最初のページを開いてしまう。
そしてまた、同じように、最終盤の文章に出合って鳥肌を立ててしまう。

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