これは「映画」ではない~映画『アイスクリームフィーバー』~

批判ではない。映画自身が冒頭で宣言しているのだ。

『これは映画ではない』
と始まる映画『アイスクリームフィーバー』(千原徹也監督、2023年。以下、本作)は確かに「映画」ではない。
ただしそれは、「従来の」映画ではない、ということであって、間違いなく、「2023年以降の」映画である。

それは、本作のパンフレットでの映画監督の枝優花氏との対談での、千原監督の発言が物語っている。

映画好きとして、日本映画のビジュアル作りに対する歯がゆさや怒りみたいなものが根底にあって、今回はすべてセオリーの逆を行きました。

そう、それが画像サイズ(映画サイズではなく、かと言って、今どきの縦型でもなく、逆のセオリーを行って昔のTVサイズ!)だったり、2000年代映画が「渋谷系」をネタにしたことへの怒りだったり、ひたすら暗く(スタイルだけが)小難しかったり、へのアンチテーゼだ。

だからこそ本作は2023年以降の映画だし、本作の観客を含めこれからの若者は、絶対にハマる。

そう、従来の日本映画(邦画ではない)は、何だか意味なく暗くて難解を"気取って"いたのだ。セリフも少なく、説明もしない、そんなの全く「意味がわからない」じゃないか!

だから本作は、『セオリーの逆を行』って、2023年以降の新しい映画として、とにかく説明する。セリフだけでなく、それを映像でも説明する。

「友だちの話」として、高嶋愛(安達祐実)と優(松本まりか)という姉妹の仲違いの原因まで誰かが説明し、それに合わせて、当の本人たちが再現までしてくれるのだ!
しかも、その再現は、モノクロ映像で、他にも「過去パート」はモノクロになる。
これはもちろん、最終盤のための「伏線」である(ネタバレになるので明かさないが、時代が交錯したようなギミック感が味わえる、素敵な演出)。

主人公の常田菜摘(吉岡里帆)も自分のことを語る、語り倒す。
元はデザイナーだったことに未練があるかのように、部屋でデザイナーの語り(ネット配信?)を聞いていたりもする。
『もうちょっと跳べる気がしたのに』と跳んでみる。

見るからに「謎」が多そうな橋本佐保(モトーラ世里奈)も、その行為は(類型的な)謎だが、素姓はちゃんと説明してくれる(パンフレットの「あらすじ」にも、ちゃんと『ミステリアスな女』と書かれている!)。

本作を観ながらそんなことを考えていて、後で先に引用した千原監督のコメントを読んで腑に落ちた。
監督が『歯がゆさや怒り』を感じているのは『日本映画のビジュアル作り』で、だからその結果、「音やセリフがなくても伝わる」『ビジュアル作り』をしたのだ(途中、「これ全部字幕だけで伝わるなぁ」と感心してはいたのだが、まさかそれを狙って作っていたとは!)。

それにしても、PARCO(配給)は渋谷をどうしたいのだろう?
かつてPARCO(西武)が渋谷の街を「若者文化の発信地」にしたが、その再来でも狙っているのか?
それとも、「渋谷をクリーンな街にしよう」などと思っているのか?

50歳を過ぎたオヤジは、本作を観ている間、終始奇妙な既視感に囚われていた。
渋谷とはいえ、今どきのオフィスで働く女性が広くてオシャレなマンションに住んでいる。若者好みのオシャレなバーでの女子会的誕生会。音楽は小沢健二(元祖「渋谷系」!)。
まるで、平成初期の「トレンディードラマ(死語)」の世界だ。
その頃、若者はバブルに飽きて(まだ終焉が来るとは思っていない)、「従来のもの」に対し、まさに『歯がゆさや怒り』を感じていた。
だからこその、従来の「歌謡曲」「ロック」から逸脱した「渋谷系」だった(本作の音楽を担当した田中知之は、パンフレットで明確に『渋谷系へのオマージュ』と語っている)。
まぁそれもすぐに前者らとともに「J-POP」として括られてしまうのだが、それにすんなり迎合してしまった若者文化(だって、それらを経験した人たちが年を経て(まさに私やその少し下の世代が)「従来の」映画を作っているのだ)に『歯がゆさや怒り』を感じて、『セオリーの逆を行』った結果、平成初期に戻ってしまった-つまり「裏の裏は表」-ような感じだ(さらに、銭湯とか卓球センターとか、若干昭和レトロも入っている。卓球といえば、2002年公開の映画『ピンポン』(曽利文彦監督)は「新しい」と絶賛され、その年の日本アカデミー賞を総なめにしたことを思い出す)。
「裏の裏は表」では、その円環は閉じてしまうため、『歯がゆさと怒り』は永久に解消されることはない。それを解消するのは「逆」ではなく、「逸脱」ではないか。

もう一つ。
たぶん、『セオリー』とは、渋谷が『他所よそから来る場所』であることを意味している。
『その逆を行』った結果、登場人物たちは渋谷の住人になり、銭湯も残る。
その代わり、「転校を繰り返した結果、安住の地がない」と語る奇抜な髪型とファッションの桑島貴子(詩羽)は渋谷から出てゆき、スキャンダルを抱えた佐保も失踪してしまう。
結果的に物語(=渋谷)は、「異人」を退場させる代わりに、叔母である優を頼って上京した女子高生の美和(南琴奈)を迎え入れることになるのだが、この展開には意味があるのだろうか?

そんなことを考えながら、3連休の初日で賑わう昼下がりのスクランブル交差点を渡って渋谷駅に向かった。

メモ

映画『アイスクリームフィーバー』
2023年7月15日。@渋谷・シネクイント

「従来の」日本映画は、「記号的で内容がない」と批判された。
その意味においては本作も同様で、無い内容を説明で補っているに過ぎない(だから、内容があるように見えるというか、映画的に「分かりやすい」)。

しかし本作は物語の外に意味があり、それは、1980年代のサブカル、というかむしろ、本来の意味での「オタク」的意味に近いのではないか。

たとえば、吉岡里帆さんと松本まりかさんは共にテレビドラマの「怪演」で話題になった、とか。
菜摘のバイト仲間・貴子役の詩羽さんと、菜摘の前職での同僚役のコムアイさん、とか。
モトーラ世里奈さんと、アイスクリーム、とか(正確には「クリームソーダ」だが)。

私はあまり詳しくないので、それくらいしか思いつかないが、本作にはもっとたくさんの「意味」があるのだろうと思う。
まぁ、今の若い世代にとっては、本作のエンディング曲を歌う小沢健二も「意味」に入るのかもしれないが……

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