「熊谷突撃商店」の姉妹

昭和の時代、東京・阿佐ヶ谷南口スズラン商店街に「熊谷商店」という洋品店があった。
店を切り盛りするのは、熊谷キヨ子。

キヨ子は、ねじめ正一著『熊谷突撃商店』(文春文庫、1999年)という小説の主人公である(なお以降の引用は、手持ちの単行本(文藝春秋、1996年)から)。

亭主の俊男は長身の色男。だから、女性にモテる。
だから、というわけではないが、俊男は女性にルーズである。
女性だけでなく、元々の性格がルーズだから、俊男の浮気はすぐにバレる。
女性からの手紙がキヨ子に見つかる。時に浮気相手の女性がキヨ子の前に現れる。
それでもキヨ子は別れない。反対に、浮気相手の女性の家へ乗り込んで、止めに入る警官を前に、大立ち回りをしたこともある。

そんな豪快なキヨ子の波乱万丈の半生を生き生きと描いたのが、この小説だ。


ところでキヨ子には、商店街で「美人3姉妹」と評判の娘たちがいる。

次女の有実は、テレビ初出演ながら朝の人気連続ドラマ『チーねえちゃん』の主役に抜擢され評判になった人気女優。

末っ子の美里も、姉に影響されて女優になった。

美里は、結婚して実家を離れた2人の姉がそれぞれ使っていた部屋の間にあった壁をぶち抜き、広い一人部屋にしてのびのび暮していた。

ある朝、その美里の部屋から長身の男が出てきた。
どことなく夫の俊男に似ていなくもない彼を見てキヨ子は感嘆する。「こんな長い脚に合うジーパンが、よく見つかったものだ」
彼は「杉田優平」と名乗り、悪びれもせず熊谷家の朝食を食べて出て行った。
キヨ子は優平について、以前美里と共演したことのある俳優だという知識しかなかったが、近所で彼を見かけた客の噂話を聞いて、彼に妻子がいることを知る。

事情を察したキヨ子は、美里を問い質そうとする。

美里は茶の間にいた。キヨ子を待っていたかのように、うつむいて入口に突っ立っていた。
「お母さん」
美里が顔を上げてキヨ子を見た。途方に暮れた、すがるような目だった。助けて、と言っている目だった。

その目を見たキヨ子は、結局何も聞けなかった。

姉の有実も事情を知っていた。

「放っといてよ!」
「あんた自分のしてることがわかってるの!」
二人の声がぶつかる。睨み合う二人を、キヨ子は注意深く見守る。(略)
驚いたことに、先に視線をそらせたのは気の強い美里のほうだった。と同時に、有実の視線からも棘が消えた。
「美里。あんたが杉田さんを愛しているのはわかる。でもね、杉田さんには子供がいるのよ」
そむけた美里の顔がゆがんだ。
「あんたは他人の家庭を壊そうとしているのよ。そうなったときいちばん苦しむのは、大人じゃなくて子供なのよ」

有実は美里が知らない事実を打ち明ける。
長女のかおりは俊男の連れ子だった、と。そして、美里に糾す。
『あんた、お母さんがかおり姉ちゃんを育てたようなこと、杉田さんの子供にできる?』

「知らなかった……ちっとも気がつかなかった」
美里が口に手を当てた。有実の手を振り払って階段を駆け上がった。バタンとドアを開ける音に続いて、「わあーっ」という泣き声が聞こえた。あの華奢な体のどこから出てくるかと思うような、絞り出すような号泣であった。


その後、それぞれ様々葛藤があり、やがて優平がキヨ子に挨拶にくる。といっても、彼は挨拶らしいことは口にせず、美里が席を外している間に、たった一言…
『お母さん。美里とのことは、俺は運命だと思ってるんだ。俺の今までの人生はぜんぶ、美里と出会うための準備だったっていう気がするんだ』

優平の言葉は他人には信用できないことだった。
撮影中の映画に没頭した優平が、上手くいかない自身への苛立ちを、暴力という形で美里にぶつけていたからだ。
しかし、美里は優平をかばい続ける。

そしてついに、美里の鼓膜が優平の暴力で破れてしまう。
病院に付き添ったキヨ子に何も告げず、美里は優平の元へ帰ってしまう。
それを知ったキヨ子は決意する。

このままでは、これからも同じことの繰り返しだ……(略)
水を一杯あおってから、包丁差しから文化包丁を引き抜く。いやダメだ、文化包丁なんかでは向こうは驚きやしない(略)
短刀をタオルでぐるぐる巻きにしてオーバーの内ポケットにしまい(略)タクシーを拾った。

キヨ子はオーバーの下に隠し持った短刀を握り締め、優平の部屋へ乗り込む。

「美里は返してもらいます。連れて帰ります。一度はあなたに預けた娘だけど、こんなふうに傷つけられてたまるもんか。-美里、さあ帰ろう!」
空いた左腕を伸ばして美里の手を握った。

「お母さん!」
美里がキヨ子の手を払ったのはそのときだ。美里はそのままキヨ子と杉田の間に飛び込んで、両方の腕で杉田をかばった。(略)キヨ子は茫然として自分の娘を眺めた。美里が見つめ返してきた。怯えたような、それでいてひどく強いまなざしだった。この手で育ててきた美里ではなく、キヨ子の知らない、別の若い女と向かい合っているような気がした。-どれくらい時間がたったのだろう。美里の目の光がふっと弱まると、くちびるから小さなつぶやきが洩れた。
「……なさい」
「えっ」
「お母さん、ごめんなさい……」
美里が顔をそむける。キヨ子は全身の力が抜けて、その場にへたり込みそうになる。美里は行ってしまった。あたしの手を離れて、永久に杉田のところへ行ってしまった……(略)
「杉田さん、聞いた?」
うわごとのようにキヨ子は言った。
「この子、あんたのことがこんなに好きなんじゃないの。こんなに可愛い子じゃないの。あんたどうして殴るのよ。あんたのいちばんの味方をどうして殴るのよ」
杉田の目がかすかに動いた。杉田が今夜はじめて見せた感情の動きだった。キヨ子はそれを見逃さなかった。いい。これでいい。

やがて優平と美里の間に3人の子どもが生まれる。
だが、優平との幸せの時間は長くなかった。
優平に病が見つかり、ほどなくして旅立ってしまう……


繰り返すが、これは主役である熊谷キヨ子の半生を描いた小説『熊谷突撃商店』の一節である。


1998年、この小説を原作とした一人芝居が「新宿シアタートップス」で上演された。

キヨ子役で一人芝居の舞台に立ったのは、女優・熊谷真美だった。


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