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普遍的な「家族」の物語~映画『ぼくが生きてる、ふたつの世界』~

映画『ぼくが生きてる、ふたつの世界』(美保ミポ監督、2024年。以下、本作)の主人公は、確かに「コーダ」ではある。
原作である『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』(幻冬舎、2021年。2024年文庫化の折りに本作と同名に改題)というエッセーのタイトルどおり、著者の五十嵐だい氏はコーダである。

しかし、『ずっと家族を描いていきたい』(本作パンフレット所収のインタビュー)という呉監督の言葉どおり、本作はまぎれもなく「家族の物語」だ。

宮城県の小さな港町、五十嵐家に男の子が生まれた。祖父母(でんでん、烏丸せつこ)、両親(今井彰人、忍足おしだり亜希子)は、“大”と名付けて誕生を喜ぶ。ほかの家庭と少しだけ違っていたのは、両親の耳がきこえないこと。幼い大(吉沢亮)にとっては、大好きな母の“通訳”をすることも“ふつう”の楽しい日常だった。しかし次第に、周りから特別視されることに戸惑い、苛立ち、母の明るささえ疎ましくなる。心を持て余したまま20歳になり、逃げるように東京へ旅立つ大だったが・・・。

本作公式サイト「Story」
(俳優名は引用者が追記)

本作は、原作者の名前がそのまま主人公の名前となっていることからもわかるとおり、物語上、若干の脚色はある(「Sちゃん」は出てこないが、居酒屋のシーンで彩月を含め女性のイニシャルが全て「S」なのは意図的か?)ものの、五十嵐家にまつわる人物・設定・エピソードはほぼ原作を踏襲している。
だから、祖父が元ヤクザなのも、祖母が宗教に熱心だったのも、両親が東京へ駆け落ちしたのも、父親が倒れたのも、大が花壇を荒らした犯人にされそうになったのも、本当のことだ。
そして何より、大の母親への気持ちの変遷も原作エッセーに綴られたとおりで、だからこそ本作は「家族の物語」であり、観客(或いは読者)はそこにかなりの痛みを感じる。

「家族」というのは様々な具材や調味料を煮詰めたカレーのようなもので、そこから「家族は大事」とか「家族は温かい」「家族が好き/嫌い」「家族が重荷」といったエッセンスだけを取り出すことは不可能だ(たまに「味噌」みたいな不和が入り込んでくることによって、改めて「味」について考えたりもする)。

呉監督のカレーは「最高に美味いが、最高に辛い」。しかも、『そこのみにて光輝く』(2014年)などを観てもわかるとおり、そのカレーを呉監督はトッピングも福神漬けもラッキョウも何もつけずに提供する(さらに、水などによって辛さを和らげることすら許してくれない)。

2022年に米アカデミー賞を受賞した『コーダ あいのうた』(シアン・ヘダー監督)などで注目されたこともあり説明は不要かもしれないが、「コーダ」は「Children of Deaf Adults」の略で「耳の聞こえない両親をもつ子ども」を指す。
数多の障がい者(という言葉は本稿ではあまり使いたくないが)家庭の中で、コーダが重要視されるのは、恐らく我々の一般的なコミュニケーションが「音」「声」で行われてきたからで、つまり「耳が聞こえない人」だけがそのコミュニケーションに参加できず、「コーダ」はその『ふたつの世界』の橋渡しを言葉を覚える以前から(暗黙的に)強要されてきたからではないか。

文筆家・田中さをりは著書『時間の解体新書』(明石書店、2021年)の中で、こう指摘する。

聞こえる人々の世界では、長らく聴力と言語能力が結びつけて考えられてきたためだ。

「ふたつの世界をつなげる」ことを強要されてきたコーダたちは、だから「自分が誰かとつながる」という考えを持ちにくくなるし、だから「自分だけが違う」という思いにとらわれることになる。
原作でも本作でも触れられているとおり、彼ら/彼女らは、自分のような境遇の人間に「コーダ」という名称が付けられていることを知らない(だから、『コーダ あいのうた』がヒットしてその名が知られたことは素晴らしいことだ)。

少し「コーダ」のことを書き過ぎたが、本作の主題はそこではない。
原作もそうで、エッセーのほどんどは、若かりしときに芽生えた「聞こえない母親への嫌悪感」に対する告解と、その後の(彼の中に巣食うわだかまりとの)和解が綴られている(ただし、和解に至るプロセスが、「コーダ」という存在が世界中にいると知ることによって起動するのは確かだ)。

私は上で『観客(読者)はそこにかなりの痛みを感じる』と書いた。
本作の主題は、「コーダの痛み」ではなく「家族(であること)の痛み」だ。
本作や原作で綴られる大のエピソードは世界中で普遍で、健常者(この言葉もあまり使いたくない)だって、子どもは親に嫌悪感を持つし、言ってはいけない言葉を投げつけたり、逆に無視したりもする。

観客は大をとおして、自分自身を見る。
親に言ってしまった心無いひどい言葉、気持ちと裏腹にとった反抗的な態度、親の怒った顔、困った顔、悲しそうな顔、泣き顔……
何故、あのとき、そんなことをしてしまったのか……
大の痛みは、スクリーンをとおして自分の痛みとなる。
この最高に辛いカレーを、呉監督はトッピングも福神漬けも、水さえもつけずに観客にそのまま提供する。
観客は痛みに耐えながら、自らの意思で食べ続けてしまう。理由はふたつ。
ひとつは、自分自身の痛みなのだから、そこから逃げてはいけないから。
もうひとつは、やっぱり、呉監督のカレーが最高に美味しいからだ。

事実上のラストと言って良い駅のホームのシーンは、1分以上無音。
エピソード、シーン自体も感動的だが、この無音によって「聞こえる」「聞こえない」を超えて私たち観客は同じ気持ちを共有した。
何よりそのことに感動した。

特別なイベントやプレゼントはもちろんうれしいだろうが、母親が子どもに本当にしてほしいことなんて、こんな当たり前過ぎて気づかないような、ささやかなことだったりするのかもしれない(そう考えると、私もまた自分では気づかないうちに親を喜ばせているかもしれない。そうであれば少し救われた気持ちになる。しかしそれは後述するように「自分を赦す」ということとは違う)。
それを含めて、やっぱり本作は「家族の物語」だ。

メモ

映画『ぼくが生きてる、ふたつの世界』
2024年9月23日。@シネスイッチ銀座(手話言語の国際デー 特別トークイベントあり)

毎年9月23日は「手話言語の国際デー」なのだそうだ。

本文に書ききれなかったことを捕捉しておく。

まず、本作中で祖父が『治ると思ったんだよな、耳。んだがら、ろう学校でねくて普通の学校さ入れたんだよ。それによ、手真似ばっかしてると、一生喋れねえべ?』と言う。
前出の『時間の解体新書』の中で田中は、1923年ごろ、当時の官僚だった川本宇之介が、哲学者・実験心理学者のヴント(1832~1910年)が著したろう研究の名著である『民族心理学』を、(恣意的に)誤訳したり不適切な引用をして訳して、国に手話ではなく口語教育を提言したと指摘している(田中は、恣意的な理由はアジア植民地化が関係しているのでは、とも指摘している)。

本作が普遍なのは、「普通の」家族なんてないよね、という呉監督の気持ちでもある。

何の問題もない家族は存在しないし、多かれ少なかれ、皆何かを背負いながら生きているわけですよね。

本作パンフレット 呉監督インタビュー

五十嵐家はろう/コーダ、呉監督は在日韓国人、そして本作脚本の港岳彦氏は、原作文庫本の「解説」にこう綴っている。

ぼくの弟は重度の知的障害者だ。彼は3歳児程度の知能しかもっていない。小学生のころ、親から一緒に登校することを命じられたぼくは、不明瞭なひとりごとをぶつぶつとなえる弟を連れて歩くのが恥ずかしくてしかたなかった。

これは、本作の中で編集プロダクションの上条のセリフになっているが、つまり、本作製作陣という限られた集団においても、「普通の」は存在しないのである。

原作には東日本大震災のときのことも書かれているが、つまり我々が如何に音声によってコミュニケーションをとっているかが如実に表れている(本作になかったが、花壇を壊したと大に言いがかりをつけた女性が、震災時に大の母親に逃げるように言った)。
それについては映画『私だけ聞こえる』(松井至監督、2022年)に、当事者(ろう者)の方の証言が収められている。
『私だけ聞こえる』はドキュメンタリー映画で、如何に「コーダ」の存在が孤独であるか、「共にコーダである」という存在がどれだけ大切で必要なのかを知ることができる。

コーダが精神的に追い込まれやすいのは、「目を逸らせない」からというのも一因かもしれない。反抗期の子どもは親を見ないものだが(見ないことによって反抗を表明している)、コーダはそれができない。親が何を言っているかやどう伝わっているかは見ないとわからないからだ。
逆の例だが、忍足亜希子さんの夫である俳優の三浦剛氏(お二人の間には一人娘がいらっしゃる。彼女はコーダではなく「バイリンガル」)は、『夫婦喧嘩をすると(忍足さんが)プイッと横を向くので、それが一番腹が立つ。見てもらえないと、自分が言っていることが全部無駄になる。伝わらない』と発言している(NHK-Eテレ 2024年5月10日放送『超多様性トークショー!なれそめ 聞こえない彼女&聞こえる彼 俳優カップル』)。

本文に挙げた『コーダ あいのうた』を観た原作者の五十嵐大氏は、朝日新聞のインタビュー(2022年6月1日付朝刊『「コーダ」の私が思うこと』)に、『映画を見て、気持ちがわかりすぎて、苦しかったです』と答えている。
ただ、五十嵐氏は「コーダ」という「通訳」の役割を強要されることよりも、『障害のある親がいる子として世間から偏見をぶつけられることに疲れました。親は悪くないのに、周囲の目が気になりました』と語っている。
これは、原作にも通じていて、だから原作は本文に書いたとおり「家族のはなし」として普遍性を持っている。

本文で『そこのみにて光輝く』を挙げた。
どうしようもない痛みが解決されないまま、最後の最後にタイトルが出る。
この衝撃に、私はしばらく席を立つことができなかった。
本作はある意味で主人公が浄化されたようにも取れるがしかし、恐らく劇中の大も実在の本人も、それで自分を赦すことはない(なかった)だろう。
今までとは違うかもしれないが、本人の中で痛みが解決することはないということが『そこのみにて~』と同じような唐突の暗転で提示される。
しかし、ここからの展開は違う。
赦されないからこそ、大は覚悟を決めて、『ふたつの世界』を『ぼくは生きる』ことにしたのだ。そういった意味で、タイトル表示は素晴らしい演出だった。

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