故・井上ひさし氏の言葉がSNS社会に刺さる~井上麻矢著『真夜中の電話』~

井上ひさし氏といえば、名作のドラマや舞台・小説を生み出した脚本家・作家であるが、自身が立ち上げた劇団「こまつ座」の代表でもあった。
代表とはつまり、劇団「こまつ座」を経営していたということである。

2008年に肺がんと診断された井上ひさし氏は、「こまつ座」代表の後継者として、三女の麻矢氏を指名した。そして亡くなるまで、それまで演劇を敬遠していた麻矢氏を代表として育て上げることに心血を注いだ。

井上麻矢著『夜中の電話 父・井上ひさし最後の言葉』(集英社文庫、2021年。以下、本書)には、ひさし氏が「こまつ座を引き継ぐ」麻矢氏に遺した77に及ぶ言葉が掲載されている。
だから、単なる「名言集」とは少し趣が異なり、ある意味「ビジネス書」としても読めるという、超お得な本でもある。


むずかしいことをやさしく…

井上ひさし氏は、演劇人や文章を書く人なら誰でも知っている有名な言葉を遺している。

むずかしいことをやさしく、
やさしいことをふかく
ふかいことをゆかいに、
ゆかいなことをまじめに書くこと。

モノを書くときの心構えをこんなに端的に表した言葉はないだろうが、本書によると続きがあるという。

まじめなことをだらしなく、
だらしないことをまっすぐに、
まっすぐなことをひかえめに、
ひかえめなことをわくわくと、
わくわくすることをさりげなく、
さりげないことをはっきりと


SNS時代に響く言葉

本書に掲載された77の言葉、実は麻矢氏ではなく、日常生活にインターネットやSNSが当たり前になった現代人にこそ必要なのではないかと思われる。

特に最近は、誹謗中傷の書き込み問題が、SNSはもちろん、ネットニュースのコメント欄へも波及している。
書き込む人は軽い気持ちなのかもしれないが、だからこそ、「その書き込みを受け取る人が大きなショックを受け、その後の人生に大きな影響を及ぼし、最悪の場合自死に至ってしまう」ことにまで考えが及んでいないのだろう。
逆に、近年の政府を中心とした誹謗中傷への対策強化によって、軽い気持ちで誹謗中傷(と認識すらしていないのかもしれないが)のコメントをしていた人が訴えられて、自身の人生が狂ってしまうことも増えてくるだろう。「そのコメントは取り消します」と謝っても、手遅れだ。


言葉はお金と同じ。一度出したら元に戻せない。だから慎重によく考えてから使うこと。

言葉の影響力について、井上ひさし氏はこう考えていた。

言葉もお金もそのものには何の善も悪もないのだが、使い方を間違えると人の命にかかわることだから気をつけるように。とくに言葉は相手を一生、傷つける場合もある。「今の言葉は取り消します」と言って戻すことはできない。たった一言で、その人の裏側まで見えてしまう瞬間がある。言葉を発した人は自分が言ったことに気付かないことも多い。それが怖いのだと父は言った。


決定的なことは最後まで口から出さない

SNSの特徴はコメントのリアルタイム性にある。
仲間内だけでのSNSのやりとりも、すぐに反応しなければならないという暗黙のルールがあるとも聞く。
そのため、お互い書き込む文章をいちいち推敲する余裕がない。
だから時に、送られてきた文章にカチンときて、咄嗟に相手を傷つけてしまうような感情的な返信をしてしまったことが原因で、最悪友人関係が壊れたり、仲間内で自分だけが悪者認定されてしまうことが起こる。
「あんな文章返すんじゃなかった」と後悔しても遅い。

仕事でも恋愛でも家庭でも、決定的なことは最後まで口から出さない。口に出したほうが必ず痛い目にあう。決定的なことを言われても、その挑発には乗らず、必死で一日置いてみる。


問題を悩みにすり替えない。問題は問題として解決する

SNS上には、その匿名性を利用してか、自身の心情や悩みを吐露している文章が、少なからず書き込まれている。それらは、よくは知らないが、「自分語り乙」などと揶揄されることもあると聞く。
私はSNSを使っていないので、そういった文章を頻繁に目にすることはないのだが、「乙」などと揶揄されるような文章は、他人からは「行動を起こせば解決可能な問題を、わざわざ悩みに転換し自己陶酔している」ように受け止められているのではないだろうか。
とはいえ、それはそういう書き込みをしている人が特別なのではなく、(自己陶酔しないまでも)多くの人は「問題」を「悩み」だと思い込んでいるのではないか、と井上ひさし氏は指摘している。

問題は問題として正面から受け止め、その問題が解決しないからといって、自分を卑下しない。「私は、なんて出来が悪いのだろう」とか「あの人とは相性が悪い」とか「こんな問題も解決できない自分はどう評価されるだろう」など、いつの間にか、悩みに転嫁されてしまう。そうなるともはや問題ではなくなる。なぜできなかったのか、できない理由を改善すればいいだけである。


「悩み」と「嫉妬」

『あの人とは相性が悪い』『こんな問題も解決できない自分はどう評価されるだろう』という悩みは、簡単に他人への嫉妬に転嫁される。
以前の拙稿にも書いたが、落語家の故・立川談志は「嫉妬」についてこう語っている。

己が努力、行動を起こさずに対象となる人間の弱みを口であげつらって、自分のレベルまで下げる行為、これを嫉妬と云うんです。(略)本来なら相手に並び、抜くための行動、生活を送ればそれで解決するんだ。しかし人間はなかなかそれができない。嫉妬している方が楽だからな。(略)よく覚えとけ。現実は正解なんだ。時代が悪いの、世の中がおかしいと云ったところで仕方ない。現実は事実だ。そして現状を理解、分析してみろ。そこにはきっと、何故そうなったかという原因があるんだ。現状を認識して把握したら処理すりゃいいんだ。その行動を起こせない奴を俺の基準で馬鹿と云う

立川談春著『赤めだか』(扶桑社、2008年) ※太字、引用者

談志の「嫉妬」も、井上の『問題を悩みにすり替えている』も、自身の内面や取り巻く状況を『正面から受け止め』ていないことが問題だと指摘している。
だから両者とも『現状を理解、分析し』、見つかった『原因』『理由』を『処理』『改善』すればいいだけだ、と説いているのである。


井上流『いい芝居』の定義

『いい芝居』とは?
演劇人はもちろん観客にも、それぞれ自身の中に定義があるはずだが、井上ひさし氏は麻矢氏にこう言ったという。

観終わった後に、人生はそんなに悪いものではないのかもしれないと、沸々と勇気が湧いてくるような、いつまでも歩き続けていられるような、そんな芝居がいい芝居なんだ

なぜか家にまっすぐ帰りたくなくて、コーヒーでも飲んでいこうかしら? とそういう気持ちになる。あるいは、夜中まで歩いていたくなるほどのエネルギーをもらう。そんな普段は絶対自分はならないような気持ちになる、そんな芝居がいい芝居なんじゃないかな

観劇後、私は一人飲み屋のカウンターに座って酒を呑みながら、観てきたばかりの芝居を振り返るのが好きだ。
そういう時何故か、いつもより酒が旨く感じたりするのだが、そうか…それが『いい芝居』なんだな、と改めて思った。






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