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映画『4つの出鱈目と幽霊について』

怖い話が苦手だ。
なのに何故、『4つの出鱈目と幽霊について』(山科圭太監督、2023年。以下、本作)というタイトルの映画を観たのかというと、たぶん『出鱈目』の安心感だったと思う。それと、本作サイトに掲載されたこんな文章も。

幽霊についての語りが織りなす、ユーモラスな4つの寓話。
幽霊の「出現」ではなく、幽霊について「語る」ことに焦点を当てた4つの物語が、寓話性を伴いながら世界の在り⽅をほのめかす。

ここにもあるとおり、本作は4篇のショートストーリーから構成されており、それぞれは独立しているが、別の話の人物が他の話にも出ていたりと長編としての一貫性を持っている。

第1話「CAT IN THE FOG」⼩説家の渡辺(吉⽥正幸)は、ある郊外の街に滞在し執筆していた。渡辺はその街にとりつかれ、彷徨うことになる。

第2話「SISTERʼS VIEW」ミドリ(祷キララ)は森の奥で⽗親のオバケを⾒たと、姉のアオイ(伊東沙保)を連れて⾏く。しかしそれは⽗親ではなかった。

第3話「幽霊を愛する⽅法」ユタカ(アイダミツル)と、その亡きパートナーの弟マコト(⽣実慧)との共同⽣活。突然マコトが、兄ちゃんの幽霊になったと告げる。

第4話「むかしむかし、ある国で」就活⽣の真希(⼩川あん)は、⾃分の⽣き⽅や社会に対して疑問を持っていた。そんなとき盲⽬の旅⼈ナカダ(⻫藤陽⼀郎)と出会い、ある⽰唆をうける。

4作を観て、『出鱈目』は安心感ではなく、「幽霊」への恐怖につながるのだと気づいた。
もっとちゃんと言えば、『出鱈目』の中にある、第1話「CAT IN THE FOG」で渡辺の不倫相手の女性が云う『そういう話、ちょっとわかる気がする。だってそういうものでしょ』的な「説明はできないけれど、感覚的に納得してしまう」部分が、実体のない(とされる)「幽霊」と感情的に直結されることによって、(感覚的な)実体として立ち現れることが恐怖となる、ということだ。

『「幽霊」と感情的に直結されることによって、(感覚的な)実体として立ち現れる』のは、つまり本作が、『幽霊「出現」ではなく、幽霊について「語る」ことに焦点を当て』ているからで、語りを聞くことによって起動した観客の想像力が、『幽霊「出現」』させてしまう。
想像によって出現させてしまった「幽霊」は観念的な存在であるが故、「(幽霊を)見た」といった「能動的」実感として捉えられず、「でもそこにいる」のである。
このことによって感じる恐怖は、恐らく、次の文章で説明される。

本書『かわうそ堀怪談見習い』を読んで、気づいたことがある。とても大事なことだ。私はずっと「見た」という話を追い求めてきた。本書には、そういうことももちろん書かれている。でも同時にこうも書かれている。なにかこの世ならざる者が「わたしを見ている」と。それも頻繁に。従来の語りでは幽霊は、圧倒的に目撃されるものとされてきた。つまり、私たちが幽霊を「見る」。しかし、幽霊から積極的なかかわりがもたれる場合、幽霊もまた目撃者を「見ている」はずだ。幽霊を「見る」ことの多くは、本来幽霊に「見られる」こと込みで起こることなのだ。

柴崎友香著『かわうそ堀怪談見習い』(角川文庫、2020年)・解説(藤野可織)
(太字は引用者)

第1話「CAT IN THE FOG」において、渡辺はバーテンの話から、公園で話しかけてきた男のことを思い返す。つまり、渡辺は「話しかけられたから」男を認識したのであって、だからそれより前、彼は「男に見られていた」のである。

第2話「SISTERʼS VIEW」において、当初は「父のオバケを見た」立場だったミドリとアオイは、「別人に見られている」立場に置かれてしまう。

第4話「むかしむかし、ある国で」は少し複雑で、真希が面接で自己紹介しようとすると吐いてしまうのは、「実態を伴わないプロフィール」の向こう側にある「実体」を見られている恐怖からではないか。
それは、ナカダの周りに集まる人々も同じで、盲目のナカダには「私を見られない」といった安心感があるのではないか(悪意的に捉えれば、「見える者の優位感」もあるだろう)。
彼らと出会った真希は、だから、「見る立場」を選ぶ。

では、「見られる」ことは「恐怖」につながるだけなのか、といえば、そうではない。
「実体のない者」に見られることは恐怖につながるが、「実体のある者」に見られることは、時に安心や癒しにつながる。
それが第3話「幽霊を愛する⽅法」で、だから、この話が上映後のトークに登壇した人たち全員の推しだったのも頷ける。

私は怖い話が苦手だ。
しかし本作を想像力を働かせて楽しんだ後、少し補正が必要だと思った。
私は、積極的に怖がらせる話が苦手だ(というか、嫌いだ)。

メモ

映画『4つの出鱈目と幽霊について』
2023年12月2日。@下北沢・K2 CINEMA(アフタートークあり)

本編において、第2話のミドリとアオイが何故見られているのかについては触れられていないが、パンフレットに掲載されているQRコードから、本編でカットされたシーンが見られる。
結局のところ「見られる」ことへの恐怖につながるのだが、その接続先が「得体の知れない何か」ではなく「具体的な謎」、つまり、「わかりやすい恐怖」になってしまっているように感じた。
だから個人的には、本編になくてよかった、と思った。




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