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映画『全身小説家』(UPLINK吉祥寺【気がかりな映画特集】)

「井上光晴」という小説家をご存じだろうか?
今の人なら、映画『あちらに棲む鬼』(廣木隆一監督、2022年)の白木篤郎のモデル、といったほうが伝わるかもしれない。

『あちらに棲む鬼』の原作(朝日文庫)は、作家の井上荒野あれの氏が実父・光晴と瀬戸内晴美(現・寂聴)の関係を光晴の妻(荒野氏の実母)の視点から描いた「小説フィクション」である。

私はまたしても原作小説を読んでいないのだが、どうやら白木篤郎のドキュメンタリーを撮影する映画監督が登場するらしい。
だとするとその監督は、『ゆきゆきて、神軍』(1987年)などで知られる原一男監督で、実際の映画は1994年に『全身小説家』(以下、本作)というタイトルで公開され、その年のキネマ旬報ベストテン1位・監督賞や毎日映画コンクール日本映画大賞などを受賞した。

前置きが長くなったが、本作公開から30年後の2024年、UPLINK吉祥寺が企画した「気がかりな映画特集」の1作品として上映されることになった。しかも、アフタートークには、原一男監督と『あちらに棲む鬼』で脚本を務めた脚本家・映画監督の荒井晴彦氏が登壇するというのだから、観に行くしかない。

2024年の今は、冒頭に書いたとおり、恐らく『あちら~』から入る人が多いと思うが、そういう人が本作を観ればきっと混乱するだろう。
それは、ドキュメンタリーであるにも拘わらず、『あちら~』よりもモデル本人の方がよっぽど「虚構」であり、彼を演じた、あの「トヨエツ」こと豊川悦司よりもはるかに「イイ男・モテ男」だからだ。

光晴氏は全国で「伝習所」という小説教室を開いていて、そこに参加する生徒たちが皆、光晴氏に心酔している。
インタビューに答える中年~老年の女性たちが揃って、恋する乙女のようなうっとりした表情で光晴氏のことを語る(30年経って私も彼女たちと同じくらいの年齢になったので気持ちはわかるが、やはり、2024年現在の風潮からすると、かなり生々しい)。
女性だけでなく男性までもが「自分を一番わかってくれる」と惚れ込んでいる。

とにかく光晴氏は「人たらし」であり、「サービス精神の塊」なのである。
『あちら~』でも女形に扮し音楽をバックに躍る篤郎が登場する。『あちら~』を観た人がどう思ったかはわからないが、あれも事実だ(バックの幕に書かれた一座名が「荒野一座」になっていたのは少し笑った。本物は「辺境一座」)が、ここでも本人がフィクションを超えてしまう。
篤郎は踊りながら着物の裾から太股をチラリと見せる程度だが、実際はストリップショーだった(インタビューでは「パンツに顔を突っ込む役割の女性まで決まっていた」と証言され、そういった意味でも、本作は2024年現在の風潮からすると、かなり生々しい)。

かなり生々しいといえば映像もそうで(さすが原一男監督)、本作は1989年に手術したS字結腸ガンが転移した光晴氏の闘病記でもあり、カメラは転移したガンを切除する手術の一部始終をとらえ、開腹した体内だけでなく、切除した肝臓の一部までもがモザイクなしで映し出される。
かなりグロテスクなシーンのはずだが、日常的にモザイク処理された映像ばかり見ている現代の我々はそちらをリアルだと感じてしまうらしく、「本物の人体・臓器」がツクリモノに見える。しかし、頭では「本物の手術の様子」ということを認識しているため、それと感情の間でバグが発生し、混乱する。

さらに、入院している光晴氏を寂聴氏が見舞い、光晴氏の奥様と3人で普通の会話がなされているシーンでは、『あちら~』と混同し、何が起こっているのかわからなくなる(さらに、逆に寂聴氏を光晴氏が見舞うシーンでは奥様がおらず、さっきとは全然違う親密な空気が流れていて、これも混乱してしまう)。

こうした混乱を一時リセットしてくれる存在が作家の埴谷雄高はにやゆたか氏で、本当に人間・井上光晴が大好きで、作家・井上光晴の才能を心底認めている(『「伝習所」に時間を割いたために、井上が書くべき物が失われた』と心底悔しがる彼の姿を観てグッときた)ことが、熱弁でインタビューに答える姿や、光晴氏に説教する態度から強く伝わってくる(原監督によると、本作タイトルも、過去に埴谷氏が書いた「全身小説家・井上光晴」という文章から取ったとのこと。ちなみに、埴谷氏というと『死霊』など難解な小説からのイメージがあるが、本作を観ると、誰もがきっと彼を好きになる。特に正月の集まりのシーンとか)。

こうして緩急をつけながら進んできた本作は、後半、ガンが進行していく様子と並行して、光晴氏の生い立ちに迫る。
これまで彼が、「伝習所」や講演会、自著などで語ってきた「自作年譜」の嘘が、実の妹、親戚、子どもの頃の友人などの証言によって、次々と暴かれていく。

それはつまり、我々が知っている(はずの)「井上光晴」が虚構だったということであり、では、彼は一体何者だったのか?

『(光晴氏を育てた)おばあちゃんが「嘘つきみっちゃん」と言っていた』と埴谷氏は言う。
『だから井上は(小説家という)最高の道を進んだといえる。(略)だから僕みたいに面白がっていればいいんですよ。よく嘘をついてくれた、と』

寂聴氏は言う。
『彼には"誰にも言わない真実"というものがあって、それを守るために嘘をつかなければならなかった』

『24、5時間でも長く生きたい』と懸命に闘病していた光晴氏は、1992年5月30日、帰らぬ人となった。享年66。

本作は、葬儀で弔辞を読む寂聴氏の姿で終わる。
その中で彼女は言った。

(井上と出会った)40代の私は愚かにも、男と女の間にはセックス抜きの友情など成立することはないと思っていました。けれども、あなたと私は性抜きの稀有な男女の友情を全うする長い歳月を共有しました

『「嘘つきみっちゃん」もだけど、寂聴さんもねぇ』
アフタートークで原監督と荒井氏は、そう言って笑った。

『あちらに棲む鬼』を執筆する際、荒野氏は寂聴氏に取材し、弔辞の時の心境も聞いた。
『何でも話して下さった』寂聴氏は、しかし、たった一言、こう答えただけだったという。

そんなのうそに決まっているじゃない

本作は最初から最後まで、現実と虚構が曖昧だ。
いや、本来、虚実皮膜のあわいにあることこそが、優れたドキュメンタリー映画の条件なのかもしれない。

メモ

映画『全身小説家』(UPLINK吉祥寺【気がかりな映画特集】)
2024年3月10日。@UPLINK吉祥寺(アフタートークあり)

アフタートークは、スタッフが用意した蓋つき紙コップの中身が(緊張を解くための)ビールかどうかから始まり、それがビールだったかどうかは定かではないが、結局、関係者がネット配信を断念せざるを得ないほどの、毒舌・暴露だらけの内容となった(映画を観られただけで嬉しかったが、更にこれを見られて本当にラッキーだった。やっぱり映画は映画館で観るものだ)。
だから、本稿でもそれは書けないのだが、事の発端は本稿冒頭でも書いたとおり、原作に出てくる映画監督をやりたい、と原監督本人が脚本の荒井氏に申し出たが断られたというイチャモンを聞いた荒井氏が「だから、ウチの雑誌(『映画芸術』)に酷評を書いたんだ」と得心したことだった。
「悪口なのに、よく載せたよね」と感心する原監督に対し、荒井氏が「まぁ、間違ってなかったからね」みたいに返したところから、『あちら~』の裏話(と、あえて言う)に火がついた、と。

本作、30年前の公開時に観ている。
記憶が曖昧だが、確か、今の場所に移る前のユーロスペースだったような。
ドキュメンタリー映画もミニシアターも初めての経験だった、田舎から上京して間がない20代前半の私には、本作は刺激が強すぎた。その結果……

集めてはみたものの、読んでもさっぱり理解できず、ほとんど未読のまま30年が経過した。
あと10年もしないうちに私は定年になる。
その頃には、少しくらい理解できるのではないか。
この本たちは私の老後の楽しみだ。

(出典:朝日新聞 『あちらにいる鬼』発刊時の井上荒野氏インタビュー記事)

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