舞台『マーク・トウェインと不思議な少年』

舞台『マーク・トウェインと不思議な少年』(G2脚本・演出。以下、本作)を観終わり、物語をどう扱えばいいのか困惑している。

本作はタイトルどおり、アメリカを代表する作家である「マーク・トウェイン」氏を主人公にした物語だが、私は『トム・ソーヤの冒険』も『ハックルベリー・フィンの冒険』も読んだことがない。
芝居・映画の原作や劇中に出てくる物語を知らない、読んだことがない、というのは私にとって日常茶飯事であり、今更そのくらいのことで困惑することはない(確実に物語を捉え損なっているのだろうが、そんなことは気にしない、ということだ)し、本作については、それらを読んでいなくても十分に楽しめた……にも拘わらず、困惑しているのだ。

G2のオリジナル脚本である本作は、その素晴らしい児童文学の作者である「マーク・トウェイン」の華々しい回顧譚ではなく、その「マーク・トウェイン」の作者である、サム・クレメンズという老人の「謎」に思いを巡らせる物語だ。

サム・クレメンズは「マーク・トウェイン」の本名であるが、その彼の「謎」は、本作タイトルにもある『不思議な少年』に由来する。

それは、サム・クレメンズ死去後に見つかった部分的草稿を編集者が物語になるよう手を入れ、出版された<小説>だ。
G2は本作パンフレットにこう記している。

小説『不思議な少年』は(少々乱暴ながら)端的に言えば「人間はあまりにも愚かで良心という名のもとに平気で裏切ったり殺し合ったりする存在で、かつ、運命ですべてが決められており人間に自由はなく、しかも人生そのものが単なる幻なのだ」ということを描いたものです。
あの独特のユーモアで有名なマーク・トウェインが、なぜ晩年にそこまで希望のない小説を描こうとしたのか? 未完の作品なので作者の本当の意図は謎に包まれたままです。

その「謎」に思いを巡らせる糸口としてG2が提示したのが、先に書いた『「マーク・トウェイン」の作者である、サム・クレメンズ』である。

物語は、晩年のサム・クレメンズ(別所哲也)自叙伝の口述筆記のために自身の人生を振り返る、という枠組みの中で展開する。

しかしその中にあって、サムは自身に起こっていない証言を繰り返す。
問い質す秘書に彼は、「これは私の自叙伝ではない。マーク・トウェインの自叙伝だ」と宣言する。
それを裏付けるように、当初は回想として登場してきたかに見えた若き日のサム・クレメンズがやがて「マーク・トウェイン」(白石隼也)を名乗るようになり、老年のサムと乖離してゆく。
この乖離は、マーク・トウェインの作品がベストセラーとなり有名になるにつれてどんどん大きくなり、「マーク・トウェイン」とサム・クレメンズが分裂してしまう。

サム・クレメンズの回想だったはずの物語が、「マーク・トウェインとの分裂」という、ある意味での妄想に発展するのは、小説『不思議な少年』がら抜け出てきた少年(平埜生成)が、サムの回想を支配しているかのように振る舞うからだ。

この少年は、G2が云うように『人間はあまりにも愚かで良心という名のもとに平気で裏切ったり殺し合ったりする存在で、かつ、運命ですべてが決められており人間に自由はなく、しかも人生そのものが単なる幻なのだ』と主張し、「マーク・トウェイン」の幻影から逃れようとあがき続けるサムをあざ笑う。

その、サムの「マーク・トウェインとの分裂」「『不思議な少年』執筆の動機」という2つの「謎」をつなぐ役割として、サムの妻・オリヴィア(筧美和子)が配置される。

物語は、『不思議な少年』執筆中の老年のサムの元に、その物語から抜け出してきた(この展開は、G2が本作の少し前に自らの脚本・演出で上演した井上ひさし原作の『ブンとフン』を想起させる)という少年がオリヴィアの余命を宣告し、そのとおりに彼女が倒れるところから始まり、どんな手を打とうが少年の予言に抗うことができない(できなかった)ことにサムが打ちのめされる。

一方、若き日のサムの物語は、写真で見たオリヴィアに一目惚れするところから始まる。
まだ「旅行記作家」だったサムとの結婚を決めたオリヴィアは、南部出身の彼が北部で作家と認められるように(当時は、南部出身者は下品で野蛮だと思われていた)「小説のチェックとアドバイス」を自ら買って出、それにより「マーク・トウェイン」は北部でも人気の作家になる。
物語は、「マーク・トウェイン」の人気上昇とともにサムとの乖離が大きくなるという展開に至るが、その裏にオリヴィアの影を忍ばせている(つまりサムは、「『マーク・トウェイン』の作者」は自身と妻であると考えていたということで、だからそれが、「私は『マーク・トウェイン』ではない」という根拠にもつながっている)。

アメリカ中で作家としての名声を得る「マーク・トウェイン」とは反対に、彼の「作者」であるはずのサムは忘れ去られる。
自身が生み出したはずの「マーク・トウェイン」に嫉妬を覚えたサムは、自らも「マーク・トウェイン」以上の名声を得ようと躍起になり、なりふり構わず様々な新規事業に投資し、全て失敗する。投資先から見ればサムは、「格好のカモ」でしかなかった。

つまり、物語としては、上述したG2の言葉どおり、『人間はあまりにも愚かで良心という名のもとに平気で裏切ったり殺し合ったりする存在で、かつ、運命ですべてが決められており人間に自由はなく、しかも人生そのものが単なる幻なのだ』という展開で進むのだが、しかし、本作はバッドエンドではない。
私はもちろん、他の観客たちもバッドエンドとは理解しなかったはずだ。

これの意味するところは何か?
恐らく、(G2を含め)観客は、この『未完の物語の謎』の先に何か希望が見えたのではないか。
その希望が何なのか、未完で終わった物語からは確かな答えは得られない。だから考え、想像するしかない。
私(たち)は、舞台上からそれを託された。
託されたからには、何かを考え、想像するしかないが、その扱いに困惑している。
ということで、こうして"note"に舞台感想記事を書くことによって考え、想像しようと試みたが、それではまだ扱いが不十分なようだ。
ここはやはり、「マーク・トウェイン」、いや、サム・クレメンズの小説を読んでみるしかないのだろうか……

メモ

舞台『マーク・トウェインと不思議な少年』
2023年9月9日。@新国立劇場 小劇場

と、本文には書いたが、これは、私の「"note"への投稿のための創作」であり、実際の作品とは異なるものだということをお断りしておく。
本作は、そんなことを考えなくても、十分に物語として楽しめるものになっている。

ちなみに、マーク・トウェインの作品を1作も読んだことがない私が、すごく感心したのは、G2氏のこの発言だった。

<マーク・トウェイン>とは、蒸気船が座礁しないで通航できる限界の浅さ、「今のところ座礁しないよ」という意味

つまり、サム・クレメンズ氏は「意味を虚構化できる人」だったのであり、だから、『不思議な少年』もまた、そう解釈することができるのかもしれない……って、読んでいないのだが。


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