音楽劇『ブンとフン』

音楽劇『ブンとフン』(G2脚本・演出。以下、本作)の「ブン」役が浅川梨奈さんと聞いて、「なるほど、そうきたか」と膝を打った。
本作は1970年に出版された井上ひさし氏の同名小説(以下、原作)を舞台化したものだ。
この全世界を股にかけた賑やかな物語をどうやって(しかも、7人の俳優だけで)舞台化するのかと思っていたら、「朗読劇」という形式での上演で、それにも「なるほど、そうきたか」と膝を打った。

朗読劇ではあるが、舞台上に予め置かれた複数の丸椅子を俳優たちは移動し、時には立ったまま、或いは舞台上からいなくなったりしながら朗読していく。

売れない小説家・大友フン(橋本良亮(A.B.C-Z))が書いた「ブン」という物語の中から、ブンが飛び出してきて大騒動を巻き起こすというストーリー。

鼻は猟犬りょうけんのごとくよく効き百メートル先のギョウザとシューマイの匂いを嗅ぎわけ、視力は2.5で鷹より鋭く千メートル先の南京豆ナンキンまめと塩豆を見わけ、耳は鼠よりさとく一万メートル先の針が落ちた音とゴミが落ちた音を聞き分け、男でもあり女でもあり、その上怪人二十面相など足元にも及ばぬ変装術の名人で、一秒前にしわくちゃの梅干うめぼしばあさんに化けたかと思えば、一秒後にはよぼよぼのじいさま、二秒後にはミス・ユニバース(註:本作では『櫻坂(たぶん)』といったアイドルユニット名になっていた)、三秒後には金太郎のようなまるまるふとった赤ちゃんにも化け、古今東西のあらゆる学問にくわしく、特に物理学にたいする理解はアインシュタイン博士もシャッポを脱いでその白髪頭をさげるという-大泥棒ブンの華麗なる冒険生活

冒頭に書いた『「ブン」が浅川梨奈』ということで「膝を打った」のは、何にでも変身できるブンだが原作でも女性の姿でフンの前に現れることが多く(それは多分に井上ひさしが「お色気」を書きたいからという理由もある)、そんなブンにフンが惚れてしまうことが結末の伏線になっているからである。
それに加えて、原作において自分が作り出した物語の人物と作者自身の恋愛という「倒錯の自己完結物語」としての笑いだったものを、現役男性アイドル主演の「大真面目な恋愛物語」に仕立て上げたという点においてもまた、「なるほど、そうきたか」と膝を打った次第である。

ストーリーは、基本的に原作に沿っており、物語の軸として「フン・ブン」対「クサキサンスケ警察長官(大高洋夫)・悪魔(松永玲子)」の対決構図を先鋭化した形となっている。
また、舞台化においては、『「ブンがフンの小説から出てきた」という小説が「現実の世界に出てきた」』という構造になっているだけでなく、原作から出てきた人物たちがそのことに自覚的である、という更なるメタ構造となっていて、実に良く出来ている(さすがG2)。
「原作から出てきた人物たちがそのことに自覚的」とはつまり、物語から出てきたブンが現実世界に働きかけるのとは対照的に、「物語として世界が閉じている」ということであり、それを自覚しているからこそ、登場人物たちは皆、物語を変えるために「ナレーター(升毅)」を利用しようとするのである。
物語の中で物語自身がセルフパロディーをやっているという複雑な構造だが、それを感じさせないのは、升毅の飄々ひょうひょうとした演技(朗読)のおかげである。

さて、原作どおりに12万人のブンが警察に出頭してきた(個人的に最終論告の『角ヲ曲ガッタカドニヨリ』がそのまま採用されていたのは嬉しかった)のだが、問題は結末である。
井上ひさしは、4年後に出版された文庫版(新潮文庫)のあとがきに、『結末にも、いまとなってはある種の不満は残るが、これを書いていたときのことを思うと、これもこのままにしておくべきだと考える』と記しているが、21世紀において原作結末の「強烈な皮肉」はきっと理解されない。
本作はどうするのか?

世界中で翻訳出版された本からもブンが出てくる、というアイデアは良かった(これらのブンの造形は、恐らく「山形東作」のエピソードが基になっているのだろう)し、さらにそれらが「パラドックスに陥って動けなくなる」というアイデアも秀逸だった。
ただ、「残った2人対オリジナル・ブン」という展開は、とても引っかかる。それは、残った2人に現実世界を安易に想起させる名前が付けられていることによる。
元々2021年に上演される予定だったことを鑑みても、フンが投獄され、書くための道具さえ与えられないのは、「言論・思想の弾圧」ではなく、「言論・思想だけでなく移動をも含めた全ての自由が奪われた」ことを意味すると考えるのが妥当だ(だからこそ、「閉じ込められても道具が無くても表現できる(=ブンを救える)」という希望を見出すラストシーンが感動的なのだ)。
であれば、残った2人にあえて現実世界を想起するような名前を付ける必要があっただろうか(仮に名前を付ける必要があったとして、それが何故"R"と"NK"なのか? 2010年代末からの流れを考えれば、どちらかは"C"であって然るべきだ、と個人的には考える)。

上述したように、ラストシーンはそれだけにフォーカスすれば感動的なのだが、何となく、落としどころに困った挙句、恋愛を「自由への希望」にすり替えて誤魔化したように見えてしまったところが、50歳を超えたオヤジとしては、残念だった。

メモ

音楽劇『ブンとフン』
2023年6月16日。@よみうり大手町ホール

もう一つ、「権威」を盗もうとしていたブン自らが、悪魔をやり込める手段として「井上ひさしという"権威"」を使ったのも、少し気になった。

とはいえ、賑やかで猥雑な原作を、しっとりとした恋愛劇に、しかも複雑なメタ構造なのにそれを感じさせないわかりやすさで仕立て上げたG2氏の手腕はさすがだ。


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