映画『海辺の金魚』

観終わった後、放心状態のまま帰途についた。
映画『海辺の金魚』(小川紗良監督、2021年。以下、本作)に、それほどまで打ちのめされたのだが、しかし、その理由が全く考えつかない。
観てきたばかりなのに、具体的なシーンすら思い浮かばない。
言葉・映像・セリフが未整理のままゴチャゴチャと頭の中で蠢いていて、心がそれに囚われている。きっと、それを放心状態というのだろう。

それでも、何か具体的な思考をしようともがいているうち、ふと、「母親の気持ちというのは、こんな状態なんじゃないか」という考えが浮かんだ。

私は男で、しかも、子どもはおろか家庭すら持ったことがない。
そんな私が、自身の胎内に別の生命を宿し育み、やがて産み、育てることがどういうことなのか、理解も想像もできない。
だが、だからといって、それが「考えなくてもいい」理由にはならない。


本作の舞台は、鹿児島県阿久根市にある児童養護施設。何らかの事情を抱えた子どもたちが、親から離され、共同生活を送っている。
主人公の花(小川未祐)は、母親がある事件の容疑者として逮捕されたため、10年ほど前からこの施設で暮らしている。
18歳になった花は、施設にいる子どもたちの面倒を積極的にみているが、そろそろ自分の生き方を見つけなければならず、迷っている。
そんな時、8歳の晴海(花田琉愛)が施設に預けられる。晴海の背中には、虐待を受けたと思われる傷跡が残ってる。
施設に馴染もうとしない晴海にかつての自分を重ねた花は、晴海に寄り添うようになり、やがて晴海も心を開いていく。

あらすじのようなことを書いてみたが、劇中、何の説明もない。
ナレーションも説明セリフもテロップも、一切ない。

晴海は過去に暴力による虐待を受けたのだろう。しかし、施設に来た理由はネグレットではないかと想像される。
それは、施設に来た直後、手を差し伸べようとした花にとった態度でわかる。
髪の毛は無造作に伸び放題で随分前から何のケアもされていない状態であり、それ以前に、花に向けた表情は怯えではなく不信のそれだったからだ。

このシーンだけでなく、全編通して、晴海役の花田琉愛の表情が素晴らしい。
親しくなった花に、伸び放題だった前髪を揃えてもらった時に見せた、嬉しさと恥じらいがないまぜになったような表情。それは、単に視界が開けた嬉しさというより、女性(8歳でも)特有の容姿に対する気持ちから自然に湧き上がった感情表現だろう。


花と晴海が親密になるにつれ、それぞれの心に変化が現れる。
施設に来た当初は淋しさとショックで「ママ」と口にしていた晴海は、しだいにそれを言わなくなる。
当初は晴海に幼い頃の自分を重ねていた花は、晴海の変化とシンクロするように、母親のような感情を見せ始める。

それを象徴するのが、2人で夕食の買い出しに行くシーンだ。
1度目は、何度注意しても欲しいお菓子をカゴに入れてしまう晴海に根負けしてしまう花だが、2度目には晴海を叱ってしまう。
その口調が母親が子どもに注意するそれだと気づいた花は、自身の行動に戸惑ってしまう。
その戸惑いは、私が冒頭に書いたように、色々なことが頭に蠢いていて言葉では説明できないものだっただろう。


母親の気持ちは、きっと言葉で説明がつかないだけでなく、気持ちの面でも未整理のままで、客観的に見れば矛盾しているとわかるような言動を、無意識に行ってしまうのではないか。

花の母親(山田キヌヲ)もそうだ。
彼女は、和歌山のカレー事件を想起させるような事件の犯人として逮捕された。連行されるとき、幼い花に向かって「元気でね」と、自らの行く末がわかっている(罪を認めた)ようなことを口にするが、彼女は無実を訴え、10年間争っている。
最高裁への控訴が棄却され、ほぼ結審になると花に伝えに来た弁護士は、母親の近況を伝える。
「花に会いたがっている。事件については曖昧なことしか話さないのに、花のことだけは繰り返し話す」

本作では姿を見せない晴海の母親も、きっとそうだろう。
施設では、夏休みの数日間、認められた子どもについては一時帰宅が許される。
ネグレットが疑われる晴海の母親も、何故か娘の一時帰宅を希望し、晴海も了承する。
さらに、一時帰宅の期間延長を申し出て受理されるのだが、それを知った花が会いに行くと、案の定、晴海は外で一人で遊んでいた。
「子どもの面倒をみたくないし、暴力をふるってしまうかもしれない」のに、「子どもとずっと一緒にいたい」という矛盾した気持ちは、きっとどちらも本心であり、だからこそ言葉で説明できるようなものではないのだろう。


「母親」に限らず、人間社会においては、言葉で説明できることの方が少ないのではないだろうか。
現代人は特に、言葉に頼っている気になっているが、実は「空気」といった言葉にできないものにこそ意味を感じ取り、だからこそ、それに支配されてしまうのではないだろうか。

つい最近、「ファスト映画」なるものを作製/アップロードしたことで逮捕者が出たことがニュースになったが、それ以前から映画を早送りで観る行為が一般的に行われているような報道も目にしていた(だからこそ、「ファスト映画」というサービス(?)が出現することになるのだろうが)。
また、「説明がないと理解できない。理解できないものは、つまらない・ダメ」という風潮もあると聞く。

本作は、先述のとおり、何の説明もない。ストーリー展開も、決して親切ではない。ドラマチックな場面展開もない。
きっと早送りしても、花や晴海や施設の子どもたちが何事かやっている場面ばかりだと思ってしまうだろう。

でも本作は、だから理解できないわけではない。

そもそも、「映画が全て計算ずくで製作されていて、ちゃんとした結末がある」という考えは、誤解ですらなく、もはや間違いと言っていい。
もちろん、計算ずくでちゃんとした結末を放棄する映画もたくさんあるが、そうじゃない映画だってたくさんある。
映画を生み出している人たちだって、母親と同じように言葉にできない気持ちを抱えている。だからといって、そういう映画がダメなわけではない。それが「名作と云われる所以」という映画だってたくさんある。

本作の結末は「花が金魚を海に放す」というもので、ちゃんと映画を観ていても解釈できない。
映画的にも、正解はきっとない。
花を演じた小川未祐が、パンフレットでこう証言している。

あのシーンを撮る前に、監督から「どうなってもいいよ」と言われました。「花としての感情が、まだ思いっ切り爆発できてないから、思いのままに、思いっきり気持ちを出していいよ」と。とりあえず、海に入るというのは決まっていたのですが、そこから自分でもどうなるか予想がつきませんでした。結果、金魚を離してしまったのですが、果たしてそれが何だったのか、自分の中でもよくわかりません。あの時は、頭で考えるような状況ではなく、心と身体で動きました。

監督も言う。

いろんな見方ができるシーンだと思います。残酷に見えるかもしれないし、希望に見えるかもしれない。その受け取り方は、観客の皆さんにお任せします。現実的に捉えてもらっても、ファンタジーとして受け取ってもらっても構いません。

こんな、製作者が説明できず、観客に委ねてしまう映画は、果たして「ダメ」なのだろうか?


エンディングの後、主題歌である橋本絵莉子の『あ、そ、か』が流れるまでの数秒間、スクリーンは真っ黒だった。
その時間が一般的な映画と比べてどうなのかはわからないが、私にはとても長く感じられた。真っ黒なスクリーンを観ながら、私は身体が震え始めるのを感じていた。
アコースティックギターのイントロが聞こえた瞬間、全身に鳥肌が立った。

全編通して観た本作は、ほとんど理解できなかった。
映像・セリフなどを思い出そうとしても、何も浮かばなかった。
なのに私は、今観た映画に打ちのめされ、放心状態のまま帰途についた。

(2021年7月1日。@新宿・シネマカリテ)


ちなみに、下記拙稿で「7月1日で映画館のサービスデーなので、映画を1本観てこよう」と書いたのだが、それで観たのが本作である。


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