吉本興業が仕掛ける「ツッコミ不在」の前衛的実験映画~映画『たまの映像詩集「渚のバイセコー」』~

「たま」の映像詩集、ではない。「たまの」映像詩集だ。

岡山県玉野市を舞台とした、映画『たまの映像詩集「渚のバイセコー」』(蔦哲一朗監督、2021年。以下、本作)は、「映像詩集」と銘打っているとおり、表題作を含む3つの短編から構成されている。

各短編約20分、合計60分の本作は、ある意味”超前衛的実験映画”だった。

お笑い芸能事務所最大手の吉本興業が、『玉野市とタッグを組んで』手がけた本作が”超前衛的実験映画”である所以は、「ツッコミ役がおらず、全編に渡って、ボケ役がひたすらボケ倒す」ことにある。

第一話で海に放り投げられた自転車が、第二話で文字通り「回収」され「ほぅ」と唸らされる展開となった時点で、第三話で第一話・第二話の「ボケだらけの伏線」を見事に回収した後の"オチ"を期待したのだが…
なんと、第三話がそれまでの2話よりも酷く「ボケ倒した」あげく、何も回収されないまま終わってしまうのである。


天下の吉本興業が仕掛けた超前衛的な実験は、「最先端の笑い」に疎い人も多く含まれる商業映画の観客には、「時代を先取りし過ぎて」理解不能だったのではないだろうか。
私もその一人であり、もしかしたら本作の本質を全く理解できないまま本稿を書いているのかもしれないのだが…

とは言え、最初にエクスキューズしておけば何を書いてもいいというわけではないので、言い訳として、いとうせいこう著『今夜、笑いの数を数えましょう』(講談社、2019年)から、いとう氏考察の「ツッコミの役割」を確認してから、第三話を振り返る。

ツービートの場合は特に(ビート)きよしさんの「よしなさい!」がどういうふうに機能していたか。それを僕がどう見てたかというと、きよしさんが一応止めてるから、(ビート)たけしさんがより過激なことを言っていいことになるんだよね。
(略)
「一応止めてるから勘弁してやってください」になるから、みんなもそんなに怒らないで済むことになる。安全弁の役目になったツッコミなんだよね。そうじゃないツッコミはちょっと偉そうな立場から「お前はアホだよな」って言ってくる。まあ、ひとつのまとめです。「はい、一章終わりました。まとめました」で、なんとなくホッして笑う。

(太字、原文ママ)


第三話のタイトルは「氷と油」。
地元の造船所で働く女は、同僚の地元男に恋心を抱いているが、地元男は「油くさいから」と造船所を辞めてしまう。
その地元男は、キッチンカーでかき氷を販売する「最近東京から玉野市に移住してきた」女に好意を寄せ、彼女を手伝う。

地元男が仲良くなった移住女と食事しているところに、嫉妬した地元女が割り込んで来て、玉野市を誉める移住女に反発して玉野市をディスする。
移住女と競輪場デートすることになった地元男だが、当日、移住女が彼氏(もしくは好意を寄せている男。玉野市民ではない)を連れてきたことに拗ね、玉野市を誉める二人に反発して、先日の地元女同様、玉野市をディスる。

こうして市民である2人が玉野市をディスる展開が続くのだが、ツービートの「よしなさい!」的ツッコミがあれば、観客はディスりを「自虐」として受け止め、『一応止めてるから勘弁してやってください』という「笑い」だと理解できる。
しかし本作では、「笑い」に転化させる役割のツッコミがいないため、観客はディスりをどう扱っていいか戸惑ってしまう。
「嫉妬で反発しているだけ」と受け取ってはいるものの、ツッコミ(否定)がないため確信が持てず、「もしかして玉野市ってリアルに良い所じゃないかも」と疑心暗鬼になってしまうのだ。

物語は、地元男そっちのけで、連れてきた男と競輪を楽しんだ移住女が、彼と一緒に帰ってしまう「ボケ」の展開となる。
しかも、男が連れてきた山羊(本物)を置き去り、という二重の「ボケ」になっているのだが、どちらにも、『ちょっと偉そうな立場から』「お前らだけで帰るんかい!」とか「山羊!」といった『ひとつのまとめ』的ツッコミが入らない。
そのため、笑いに疎い観客は、まんま「取り残された地元男と山羊」の現状…これ自体が笑いなのか、それとも本当のオチへの"振り"なのか戸惑ってしまう。

観客の戸惑いをよそに、取り残された地元男は、尾行してきた地元女と仲良く焼肉屋(「油」)に向かう(当然、山羊を置き去り)結末となる。
さらに地元男が「油くさい」造船所に戻ることまで示唆される始末…

ラストショットは「取り残された山羊」…
「第二話に山羊がいた理由はわかったけど…それが何?さらにオチがあるのか?」と期待したところでエンドロール…その後に仕掛けがあるかもと微か期待もしてみたが…

まぁ、山羊は「シュールな笑い」と無理矢理納得したとして、問題は、取り残されても後を追わない地元男と、尾行してきた地元女が仲良く帰ってしまう結末である。

この展開にもツッコミが入らないため、観客は結局、「ヨソ者は所詮ヨソ者。ヨソ者と地元民は交われない」という、「(ヨソ者)と(地元民)」のタイトルどおりの、身も蓋もない絶望的なオチを受け入れざるを得なくなる。

で、それを受け入れた観客は、第一話を振り返って「なるほどな」と思ってしまう悪循環に陥る。
何故なら、第一話で自転車が放り投げられるのは、地元の人に「自転車の空気を入れさせてください」とお願いするという、どこかで聞いたことのあるようなバラエティー番組でサイクリングしてきた芸人の失礼な態度に、主人公が激怒したからである(確かにこの芸人と撮影スタッフたちは、2020年代の基準では笑えないどころか炎上必至の失礼さなのだが)。

「全編、ツッコミがいないのをこれ幸いにと、ボケがボケ倒しまくった」超前衛的本作を観たお笑いに詳しくない私の感想…

「どうやら玉野市民はヨソ者が嫌いらしい」

タッグを組んでくれた玉野市を言葉でディスってフォローなしなんて…地元民とヨソ者が分離したまま終わるなんて…山羊が置き去りにされたままなんて…

当分「ツッコミ」が必要な時代が続くだろう。


おまけ

アンガーマネージメントも兼ねて、6秒どころか一晩考えてみたが、風景以外、どこに「玉野市の魅力」が出ているのか、やっぱりわからなかった…

個人的には、第二話が最終話であれば、玉野市の風景の美しさを幻想的な良い印象として持ち帰ることができただけでなく、放り込まれた自転車と山羊の伏線回収にもなったのではないか(結局、第一話で期待を持たせたレース結果も、第三話でロングショットだけの単なるエピソードの一つにしかなってなくて伏線の役割果たしてないし)、と思った。

(2021年11月25日。@池袋・シネマロサ)



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