『きまじめ楽隊のぼんやり戦争』を観ていたら、わからなくなった

2021年3月31日、テアトル新宿で『きまじめ楽隊のぼんやり戦争』(池田暁監督、2021年)を観た。
映画は、まぁナンセンスコメディで、「ゲラゲラ」笑うものではなく、かと言って「クスクス」とも違う、私の感覚では「グフグフ」とか「ニヤニヤ」とかが近いかも。

で、そうやって観ているうちにわからなくなってしまった。

「内容」ではない。
映画にはシティボーイズのきたろう氏も出演しており、池田監督自身も様々なインタビューで「シティボーイズが好き」というような発言をしているが、私も、シティボーイズ・ライブは1993年の『愚者の代弁者、西へ』から2017年の『仕事の前にシンナーを吸うな、』まで欠かさず観ているので、こういうものへの耐性(「理解」ではない)はできている。
だから、そこではない。

私がわからなくなってしまったのは、今観ているものが「虚構なのか、現実なのか」である。

内容については「note」だけでなく、ネット上に色々と好き者が説明や解説をしてくれているだろうから、別に私が書くこともないし、書けるとも思わない(こういう映画に説明とか解説とかすること自体がナンセンスであり、だからきっと好き者にとってはその行為は大切なのだろうと思う)。

だから、私は私が「わからなくなった」ことについて書く。


その前に、映画の設定だけ少し。
「川を隔てた向こう側の町と長年戦争をしている町の話」というだけだ。

で、その町の「兵隊」たちは、朝出勤し、運動場で町長の訓示を聞きながら皆でラジオ体操をし、現場(川岸)で割り当てられたエリアに配置し、朝9時きっかりに「作業(=射撃)」を開始し、お昼休憩を挟んで、夕方5時きっかりに「作業」を終え帰宅する。
ただそれだけの「日常生活」。
とはいえ、そこは戦場であり、ただ漫然と「作業」しているわけではない。
気を抜くと、ちゃんと対岸から撃たれて、負傷したり戦死したりする。


町長は朝の訓示で、「何故戦争をしているのかは忘れてしまいましたが、さらなる脅威が迫っているのは間違いない」みたいなことを言う。

その町長が忘れているのは「戦争の理由」だけでなく、人や武器の名前などあらゆる事で、「忘れてしまいました」が口癖である。

そんな町に暮す人たちは「対岸の町の人たちは恐ろしい」と純粋に信じていて、それ以上の思考を停止し、だから「とにかく戦って、勝たねばならない」という戦争の意義を疑わない。

その町長の息子は、友人と町内の煮物屋の煮物を盗み食いを繰り返すが、友人だけがつかまり、町長の息子はその泥棒を捕まえたとして、(町長によって)警官に任命される。

つかまった友人は、「兵士」となり川岸に連れてこられるが、隣の先輩に何をすれば良いか聞くと、彼から「とにかく対岸に向かって撃つだけ。朝は40発くらい、午後はちょっと頑張って70発ぐらい。撃っていれば怒られないから」と、本質を欠くアドバイスを与え、新人はそれで「作業」を始めてしまう。

主人公が昼食をとる定食屋の女将は、自慢の一人息子が川の上流に配属されていることを自慢にし、上流で何が行われているかは知ろうとせず、ただ「上流に向かうことが出世」と信じ、また、「出世するのは良いこと」と信じて疑わない。

主人公の同僚は「子どもを産めない」という理由で今の妻を捨て、次の妻に乗り換える。それに対し、町長は「子どもを産めないんじゃ、離縁されてもしかたがないねぇ」と呑気に言い放つ。

同様に、楽隊の隊長は優秀という理由でパワハラしていた女性が結婚して子どもを産むつもりだと答えるや否や、「子どもを産んで兵隊に育てるのは素晴らしい」とそれまでの態度を豹変させる。

兵舎の受付女性は、相応しくない状況とわかっているのにマニュアルどおりの質問を投げかけ、それに突っ込むとキレる。そのわりに、相手の答えを誤解して不可解な言動をとる。

新しく赴任した技師がいる兵舎入口には上官(?)がいて、気に入らないと相手の尻を蹴る。それに対して、誰も避けたり抗議したりしない。最後には、蹴られ慣れた技師は、自ら尻を差し出すしまつ。

「何でも知っている」が口癖の煮物屋店主は、「本当の事」は知らずテキトーな言説を振りまく。「本当の事」を知った彼は行動を変え、それを突っ込まれると「何も知らない」とシラを切る。


これらのことが抑揚なく淡々と繰り返されるうちに、わからなくなってきたのである。

「虚構なのか、現実なのか」


病床数ひっ迫を解消するという目的が忘れ去られ、いつしか「感染者数0」にすり替わり、国民は「さらなる脅威」がどんなものかは説明されないのに、「とにかくソイツが迫っているのは間違いない」と脅され続ける。

その指揮を執る立場の方や、その周囲の方々は、何故か肝心な事だけを忘れてしまい、「記憶にありません」が口癖である。

そんな国に暮す人々は「とにかくウイルスは恐ろしい」と信じ切り、それ以上の思考を停止し、命令でもないのに自粛する自分自身に疑問を持たず、「自粛こそが正義」と信じ込んでいる。

指揮を執る立場の方の息子は、放送事業社だか何かとの秘め事が発覚するや父親に守られ、周りの人々が処罰される。

配属されたばかりの新入社員は隣の先輩に仕事のやり方を聞くが、「とりあえず、資料でも読んどいて。そうしてれば誰も何も言わないから」と無責任な指示をし、新入社員もそれ以上尋ねることなく指示に従う。

オンラインサロンを主催する人は、自身が上流にいることを自慢にし、そこに集う人々は、上流には何があるのかは知ろうとせず、ただ「上流に向かうことが成功」であり、「成功するのは良いこと」と信じて疑わない。

国会議員(しかも与党さらに女性)が「子どもが産めないのは『生産性』がない」などと言い放つ。

オリンピック関連の偉い人が、優秀な女性を「わきまえない女性」と揶揄する発言をする。彼は過去にも「子どもを一人もつくらない女性」を揶揄した発言をしていたりもする。

いかにも「マニュアルどおり」という対応をする人。「それ関係ないですよね?」「見ればわかりますよね?」みたいなことも、いちいち、やる。突っ込むと「ちゃんとやっているのですから!」と怒る。別に優秀だからではない。その証拠に、こちらが真面目に答えたことを間違って解釈する。訂正すると何故か怒る。

できないと体罰を与える監督・コーチ。選手も当たり前のように受ける。周りの選手も疑問に思わない。

SNSやニュース記事のコメント欄で、何でも知っているかような書き込みをするが、実はタイムライン流れに沿ったことしか書いていない人。簡単な突っ込みや間違い訂正をされただけなのに、「自分は何も知らない」と逆ギレしたあげく、書き込みやアカウントを削除してシラを切る。


だから私はわからなくなってきたのだ。

これは「現実なのか、虚構なのか」

できれば「虚構」であって欲しいと願っているのだが…

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