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子どもだって誰かに話を聴いてもらいたい

幼い子どもと接していると、
自分自身の純粋さ、ニュートラルさ(価値観の偏りがないこと)、オープンさを、いつも試されている気がします。
子どもは大人のあり方や反応にとても敏感です。
まるで大人の心のうちが透けてみえているように、邪念や下心があると警戒して近づいてきてくれません。

それゆえ、ときどき知らない子どもと接してみて、自分のあり方をチェックしています。
先日の夕方も、近くの広場で幼い男の子2人が放課後に遊んでいる姿をベンチに座ってながめていました。ポータブルのゲーム機をベンチにおきっぱなしにして、走ったりジャンプしたりしている姿がほほえましくて、ひとりの子に声をかけると、もうひとりの子もやってきて、いっぱいお話をしてくれました。
「僕ね、キックが上手なんだよ」と言って脚を頭の上まで蹴り上げて競ってみせてくれたり、何が得意か、何が好きか、塾で褒められたこと、近くの小学校の二年生であること・・・などなど話はつきません。

そうしているうちに、おとなしそうな子が
「僕いじめられているんだ」と私に言うのです。
「どんなふうに?」
「『チビ』って」
「誰がそんなこと言うの?」
「3年生が。今日も言われたんだよ!」
「どんな風に言われたの?」
「『あっ、チビが来た」って」
マスクで覆われた顔から、バカにされた悔しさと怒りが痛いほど伝わってきました。その子の情動は言葉にできないくらい生々しくて、安易な共感の言葉やなぐさめがしっくりこない気がしました。
「そう、3年生にそんなこと言われたの」と
近所のおばちゃんに徹してただ聴いていました。

その様子を見ていた言葉が達者な方の子が
「ダメだよね。どんな人にも差別はいけないんだよ!」と大きな声をあげました。

すると、おとなしそうな子は、初めて会った知らない人に思いがけず自分の心のうちを語った気恥ずかしさからか、友達に大ごとにされびっくりしてか、走り去ってしまいました。
少し離れたところをグルグル走って回っている姿は、バカにされたときの恐怖や怒りやくやしさの情動を、「動き」で消化しているかのようでした。

感情は、その人の中で起こっている固有のもので、具体的な出来事の中で、瞬間、瞬間に沸き起こっているものです。
「いじめはいけない」「差別はいけない」などと一般論でまるめてしまうと、その体験や感情が色あせてしまいます。
その子の体験は「いじめ」という言葉では語れないものです。
子どもの悲しい事件が起こると、「いじめはあったかなかったか」といった調査をしがちですが、普段の何気ないかかわりの中に答えがあります。
日頃どれだけ繊細な目で子どもたちを見ているのか、子どもたちの話をありのままで聴いているのかが大事です。

いじめのことを話した子が去って行ってしまい残された方の子に、
「彼のところに行ってあげて」と言うと、
「うん」と元気にかけ出していき、ふたりで仲良く走り回っていました

「誰かが傷ついているときは、犯人捜しをしたり、誰かを批判したり裁いたりする前に、傷ついたその人のそばにいてあげることが大事なんだよ。」という意図が伝わったかな、また、初対面の知らない人に心を開いて心の内を話した彼は、ちょっとだけ成長をしたのではないかな、と思いました。

「またねー」と言ってゆったりと大きく手を振ると、私の腕と、二人の男の子たちの腕がメトロノームのように同期して初秋の夕日に照らされていました。

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