離婚に善も悪もない

周りに離婚した知人や友人がいる方も、
離婚したことがある方も、
どちらでもない方も。

私は、32歳になるまで
ずっと「離婚は悪」だと
信じて疑わずに生きてきました。

ニュースやドラマでも悪いものと扱われて、
周りの誰もが「離婚は良くないこと」だと。
そういう価値観を当たり前に生きていて。

なにより、私自身が小学校を卒業する寸前に
「両親の離婚」を経験したからです。

あの出来事は、小学生だった私にとっては
世間で言われる通りの悪そのもので。

人生の苦難の1ページとして、
深く深く心に刻まれて育ちました。


そんな子どもの頃の経験は、
私が32歳になったときに、
「どうやらそう単純な話ではないらしい」と
消化する機会がやってきたんですね。

私自身が、結婚と離婚を経験することで。

そこから自分の内面と向き合う中で、
両親へのわだかまりが解けていきました。

先にお伝えしておくと、これは闇雲に
離婚や別れを推奨する記事ではありません。

パートナーシップの大前提は
2人が共にい続けること。

それに越したことはないけれど、
それでも離婚や別れを
避けられないことがありますよね。


「冷めたら別れる」結婚観

オーストラリア在住の方から、
興味深い話を聞いたことがあります。

現地の結婚観では、夫婦は基本的に
「(恋愛感情が)冷めたら別れる」
文化なのだとか。

ときめきを失ったら、離婚するらしいです。
(全員が全員、そうではないかもですが)

一方、日本の結婚観・夫婦関係はというと、
たとえ当事者同士が愛情を失い、
コミュニケーションをなくしても、
形だけの婚姻関係を維持しようとしがち。

これがオーストラリアの結婚観からすれば、
「なぜこの2人は、今も一緒にいるの?」
と、不思議に映るのだそうです。

どの国のどの結婚観が、
正しいか間違いかの話ではありません。

少なくとも日本は「形だけ」になっても
耐え忍ぶ。あるいは、やり過ごす。
あるいは、しがみつこうとする。
そんな価値観が一定数ある、という話。

そのような結婚観が根底にあれば、
一緒にいるための理由(言い訳)は
いくらでも見つかるものでしょう。

子どものために良くないから…。
世間的なイメージが悪くなるから…。
経済的に今すぐ自立するのが難しいから…。
親に、親戚に、友人になんて言われるか…。

日本の結婚観では、
肝心の当事者たちの気持ちは優先度が低く、
後回しにされがちなのかもしれません。

そうして仮面夫婦でい続けることを選び、
場合によっては、不倫や浮気に
(”婚外恋愛”と美化されることも)
走る人たちもいることでしょう。

「卒婚」という形

あるとき、別の知人がSNSで
「私たちは卒婚することにしました」
と報告していました。

後日、その知人と直接会うことができて、
酒を酌み交わしながら
話を聞かせてもらったんですね。

知人いわく「離婚」というその決断が、
自分たちと我が子の幸せにとって
「最良の選択」だと足並みが揃うまで、
徹底的に話し合われたそうです。

これから家族を止めようという際ですから、
お相手との話し合いには
とてもエネルギーを費やされたことでしょう。

そして、当事者同士が納得できたとしても、
それぞれの両親や家族に報告・説得を
しなければならないハードルもあります。

それらを1つ1つクリアしていった先に、
離婚ではなく「卒婚」の言葉がありました。

2人が出会ったことも、
一緒に過ごしたことも必然でしかなく、
1人では決して迎えられなかった
転機もご縁もあった。

私たちはやりきった。
学び尽くした。
婚姻関係は卒業するけれども、
お互いがお互いの幸せを願い続けることが
できるし、今も、相手のことを愛している。

これからも2人が夫婦として、家族として
やっていけなかったのだろうかという未練が
心の奥に残っていたかどうかは
わかりません。

一緒にい続けることは難しい…という現実に
直面して、それでも相手を悪者扱いせず、
責めもせず、自責の念にかられることなく、
選んだ決断だったのであれば、

それは自己正当化ではなく、
「卒婚」と呼ぶにふさわしい形なのだろうと
このときに思いました。

『最良の別れ』は、最後まで2人で一瞬一瞬を真剣に生き抜いた証

とはいえ離婚という事実を、
「卒婚」という言葉で美化したい気持ちが
知人にはあったかもしれません。

私自身、双方の言い分を聞いたわけではなく
ひいき目もあったと思います。

しかし、「最良の別れ」に向けて、
出来る限りのことは尽くしたと
胸を張って語っていたように感じられました。

「最良の別れ」とは、
「幸せになる勇気」の本に登場する言葉です。

「嫌われる勇気」(著:岸見一郎・古賀史健)
の続編にあたるアドラー心理学の本で、
個人的にお気に入りの一冊でもあります。

われわれに与えられた時間は、有限なものです。すべての対人関係は『別れ』を前提に成り立っていますだとすれば、われわれにできることはひとつでしょう。すべての出会いとすべての対人関係において、ただひたすら『最良の別れ』に向けた不断の努力を傾ける。それだけです。いつか別れる日がやってきたとき、『この人と出会い、この人とともに過ごした時間は、間違いじゃなかった』と納得できるよう、不断の努力を傾けるのです。『いま、ここを真剣に生きる』とは、そういう意味です。

引用:幸せになる勇気:岸見一郎・古賀史健:ダイヤモンド社

離婚に限ったことではありません。

死別、転居や転勤、卒業や転職に伴う別れ。

どんなに誠意を尽くしても、
心を尽くしても、何らかの形で、
いつか必ず別れの時はやってきます。

そのキッカケが何であれ、
別れの瞬間だけを切り抜いて、
私が悪いとかアイツが悪いとか、
単純な二元論で片付けることはできません。

別れは、別れ。
そこには善も悪もない。

出会いと同様に、
別れに至る理由や経緯も
100人いれば100通りです。

だからこそ、不断の努力を重ね、
真剣に生き抜いた当事者の2人だけが
「最良の別れ」を見出せるのでしょう。

別れを良いものにするか悪いものにするかは
当の2人だけが決める権利を持っていて、

最良の別れにするための不断の努力は、
離婚や別れの後であっても
続けることができます。

その別れは、自分と相手を尊重する決断だったか?

別れには善悪はなく、
ただ相性の良し悪しがあるにすぎない
のかもしれません。

出会ったころは、意気投合して
相性ピッタリだったとしても、
一緒に過ごす中で互いに学び合い、
徐々に相手の素や本音が見えてきて、
それぞれに新たな転機を迎えていきます。

どうしようもなく価値観が合わないことに、
共に過ごしてみなければ気づけなかった…
ということもあるでしょう。

それでも、相手と自分を尊重したい。
そのために、だからこそ、距離を置く。

たとえ自分にバツがついても、
それでも相手を思い、自分を顧みて
下した決断ならば、それは愛によるものです。

外野は好き勝手に、
正義や正論を振りかざして
善悪の色をつけたがるでしょう。

しかしその真実は、
別れの決断に善も悪もありません。

善にするか悪にするかは、
当人たちにのみ、選ぶ権利があります。

別れの辛さを「犯人探し」にすり替えて誤魔化す愚かさ

別れが辛いことは変わりありません。
加えて、離婚には他の別れにはない
痛みが2つあります。

1つは、双方の家族や親族を少なからず
巻き込むことになる痛み。

1つは、転居による別離や死別とは違う、
合法的にかつ能動的に、自ら決断し
手を下す別れだからこその痛みです。

離婚は、法的には協議・調停と
区別はありますが、最終的には
お互いが同意しなければ成立しません。

仮に相手から切り出されたとしても、
こちらも離婚しますと
同意しなければならない。

結局、自ら落とし所を決断します。
家族として、人生の伴侶として
誓い合った相手との関係に、
自ら決めて断ち、手を下して離れる。

これは、他の別れ方にはない痛みです。

この別れの辛さを誤魔化そうとして、
「相手が悪い」とか「自分が悪い」などと、
もっともらしい理由をくっつけて己を偽り、
犯人探しをしたくなったり、
善悪に話をすり替えたくなったりするのは、

それこそ、最も悪なのではないでしょうか。

離婚は、悪でも善でもありません。
自ら決める別れだから、
ただ痛くて辛いだけなのです。

別れの痛みや辛さを誤魔化すために、悪者探しをすることこそ悪

別れた相手を悪者扱いして責めれば、
周りの人たちも、離婚という事実を
「それなら仕方ない」「相手が悪いよね」と
納得してもらえるかもしれません。

だから相手と争い、揉めることになり、
離婚が悪になるのだと思います。

相手を悪者扱いすれば、それまでの日々で
共に積み重ねてきた愛情も思い出も、
自ら否定することになります。

では、逆に「別れたのは自分のせいだ」と
自分を責めれば、納得できるでしょうか?

いいえ。
それでは自分が注いできた時間を、
人生を、愛情を否定してしまいます。

どんなに自らを責めても、
相手を悪者扱いしても、
それまでの2人の歩みを否定しても、

結婚生活の日々で得た幸せも思い出も、
自らが注いだ愛も、注いでもらった愛も、
失われたわけではありません。

別れの痛みは、相手を愛してきた証。
愛を育んできた日々と絆があるから、
だからこそ、その分だけ辛く苦しいのです。

その辛さ苦しみを誤魔化すために、
相手が悪いとか、自分が悪いとか、
決めつけるのは簡単なこと。

本当は、その出会いと別れに
善も悪も無かったはずです。

4年後の後日談:痛みを知ることが許すキッカケになった

お読みいただき、ありがとうございました。

この記事は、前のnoteアカウントでの
2019年の投稿「離婚に善も悪もない」を
リライトしたものです。

私自身、離婚の痛みと向き合うために
当時この記事を書きました。

今だからわかることは、

離婚は悪だと信じて疑わず、
両親の離婚が子ども心に傷となって
癒えぬままだったのは、

私が、両親を理解することを拒絶し、
離婚を悪と決めつけて
許さなかったからです。

奇しくも、私自身が親と同じ経験をして
同じ痛みと辛さを味わうことで、

あの日あの時の両親の痛みを知り、
それでも当時子どもだった私のことを
考え続けてくれていた愛情を知りました。

どうしようもない別れであったことを
認めることができたことで、
両親の離婚をも最良の別れだったと
認識を改めることができました。

愚かな私は、
身をもって同じ痛みを味わわねば
両親に、離婚を経験した人たちに
理解を示すことはできなかったでしょう。

どうせ別れるなら、
最初から出会わなければよかったのにと
何度も両親を、自分を呪ったものでした。

でも、2人の出会いと別れがあったから、
今の両親があって、今の私があって、
今の元パートナーがあるのです。

私にとって、元パートナーは、
両親の離婚を許すための機会を
汚れ役を演じてまで与えてくれた、
私の人生の大切なキャスト(配役)
だったのでしょう。

この記事を最後まで読んでくださった方が、
別れの痛みに打ちひしがれていたとしても
そうでなくても、

その辛さが、痛みの大きさが、
最良の別れに生まれ変わる日が来ることを
願ってやみません。

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