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生きるを楽しみながら時間を消費している

普段から全くもって省みようとしない生活を続けていたおかげで無事若くして満身創痍な体を手に入れてしまった。しゃがむのすら億劫になって初めて、機能衰退を恐れてフレイル予防に出かけるおじいちゃんおばあちゃんの気持ちが少しだけ分かったような気がした。体と心はつながっているとは言うものの、こんなにも突然動きづらくなるとは想像もしていなかった。だからと言って日々を止めることはできないからこそ痛み止めで乗り切る一日一日。

休むことが苦手な私はいつの間にか『動き続けるタイプ』の人間になってしまっていた。人間は昔から移動をしてきた。移動することによって、情報は拡散し繋がり化学反応を起こして新たな目的地の存在を照らし出してくれる。まだ見ぬ大洋の存在を胸に抱き、本当に大陸横断をしようとした大王は彼の心にどんな世界を描いていたんだろうか。どんな波の音を彼はいつも聞いていたんだろう。私の場合、移動はそこまで野心的なものではない。ただ距離感がわからないという方が適切だろう。

時間の計算が苦手で、効率よく生きるのが苦手な私は移動時間をあまり考慮せずに予定を詰めることが多い。仮に47分で最寄駅から目的地の駅まで着くと分かっていようものなら、50分前に家を出るような性質の人間なのだ。3分で家から最寄駅まで、目的地の駅から目的地まで行けるわけがない。いつも小学生みたいな速度で走っているような気がする。余裕を持ちたいと思いつつも、生きることが忙しなさすぎて余裕なんて存在しない。

毎日深夜に帰宅して3時間だけ寝てまたすぐに予定のために家を出るような生活が漸く終わりを迎えつつあってホッとしている。ここ最近、またもや不眠症の気がむくむくと起き上がっているような気がしつつ、まだ寝れているので安心はしている。また完全に眠れなくなるのは嫌だな。常に満身創痍な私は基本的にどこかしらが痛い。どこかしらに不調を抱えている。逆に元気な時の方が異常事態であるとも言える。

それでも心は常にとっても元気で、最善の空気を吸って吐いて暮らしている。生きるを楽しみながら時間を消費している。それだけは変わらない。

「君にとっていっちばん楽しい瞬間ってなんなの?」

1年前、(最も大切で大好き、LOVE、らぶ、ぴーす、君がいなくなった世界に僕の居場所はない的な)友人に聞かれてフワっとしか答えられなかった質問がこれだ。

基本的に自分に関するあらゆる変化、感覚、事象は言語化しておきたいと思う傾向があり、価値観に関しても十二分に言語化はできていると思っていた。しかし自己の存在や概念としての意識について語ることはできても、意外と自分の楽しいことについてはあまり詳しくなかった。

その場では「誰もいない静かなくらい部屋でじっと音楽を聴いていること」という、大してありきたることもない素朴な答えを返した。しかし、引っかかった。一度気になったことは気にならなくなるまで探し続けてしまう癖を動力源にしてたくさんの人に「いっちばん楽しい瞬間」について聴いてみたりした。

・好きな人とお酒を飲んでいる時
・異性にチヤホヤされている時
・趣味に没頭している時
・美味しい食べ物を食べている時
・組織で成功して評価された時
・散歩している時
・思考が形になった時

たくさん聞いたが、そのどれもが刹那的なものだった。「瞬間」について訪ねた質問であるからして、刹那的な答えが返ってくるのはむしろ当然である。一方でなんとなくひっかかってはいた。「最も楽しい = 瞬間的」なんだろうか?という疑問がぽわぽわと立ち昇り、頭頂部あたりに立ち込めていた。「一番」という言葉自体が背景に体系的な差異を孕む言葉であり、数直線みたいな連続性の中の1つであることを暗示している。「一番楽しい」と表現した時点で、そこには「二番目の楽しさ」「一番には満たない楽しさ」といったものが語られる言葉、想起されるイメージの背景に浮かび上がってくる。加えて、「楽しい瞬間」という表現も非常に強力なキリトリ能力を持っている。「楽しさ」と言うのはいわば、写真的な小景であり、動画ではないというキリトリ方を強制的に提示する。こうした言葉による制約によって、「いっちばん楽しい瞬間」は「刹那的」に想起→ 言語化されてしまう。

楽しさをびよ〜んと伸ばして考えてみたい

写真的なものは、英語でいう過去形に似ている。とある瞬間のみを切り取って表現するからこそ、表出されたものには前後の文脈があまり含まれておらず、独立して存在しているような出でたちをしてしまう。しかし、何事も突発的にゼロから生まれることはありえないという自然の法則は記憶についても同様だろう。なんらかの種がないと記憶は花を咲かせることも、芽を出すこともない。写真的なものは容量が小さいからこそ扱いやすい。小学校6年間の記憶を1行で表現することはできないように。多くを伝えようとするとより多くの情報量が必要となる。いつもいつも全てを適切に100%伝えて生きていられるほど潤沢な時間は私たちに与えられていない。だからこそ私たちは要約し、縮約し、明快にし、形にする。この圧縮作業を通してより多くの時間を活用できるようにする。それが先祖の方々が身を粉にして作り上げてきた社会の形であり技術により拓かれてきたこの文明の象徴である。

だが一方で私たちが生きる21世紀は、この「軽さ」を少しずつ超えていく時代なのではないかと考えている。いや、考えているというほどでもないただなんとなく見える世界を観察する中で立ち上がってきた。つまり、写真的なもののコマ数を少しずつ増やしていき動画的に伸ばして広げて伝えることができるのではないか?そんなことを考えている。

楽しさを動画的にしたらどうだろう?そもそも楽しさっていうのは常に感じていられるような感情ではない。喜怒哀楽の4文字がくっついているようにそこには楽以外の3つの主要な感情があり、それ以外にも数多の感情が存在し、日々それらが流れるように私たちの脳天からつまさきまでを突き抜けていき、感じては忘れ感じては忘れを繰り返している。だからこそ感情というのは刹那的に表現される方が、すんなりと腑に落ちるし、他者に伝えられやすいのだろう。どうしても「楽しさ」を刹那的に表現することができなかった私にとっての動画的な「楽しさ」はどこに存在するのだろうと深く潜り込んで考えてみた。そうすると生きることそのものの楽しさが眠っていることに気づいた。

基底感情に気付き、再設定する

「喜怒哀楽という4つの主要な感情の下側にどんな基底感情を敷くか」と言えば伝わるだろうか?例えば、基底感情に「悲しみ」を設定した人間にとって、永続的な悲しさの中に瞬間的に生まれる「楽しさ」は「悲しさ」を同時に孕むことができる。怒りを基底感情に設定した場合「楽しさ」は「怒り」を孕む。こうした4つの感情の下側にデフォルトとなる感情をのっぺりと張り巡らしてあげる。そうすると瞬間的に心と体に訪れては去る感情とは全く別の次元で、基底感情を感ずることができる。この基底感情は、いわば「軸」や「芯」のようなものであり、個人の一貫性を保つために用いられる最も効果的な規律でもある。

このように考えると、感情は一時的なものではなくなる。
「生きることそのものが楽しい」「生きることはすなわち悲しみを含む」「怒りと共に生きること」「常に生きる喜びを感じる」といった具合に、人生に1つの感情を付与することができる。私たちが時間の存在をとらえることができるのは、あらゆるものの変化を感じ取るからであり、死んだ後に時間を感じることはできない。そうするとまずは生きることが時間の前提に立っており、時間という概念は捉え方によっては認識の対象から外すこともできる。

基底感情を常に感じられるということは、一貫した人生を歩むことにも近い。基底感情に至るためには「極めてシンプルな言葉、文章」を克代するのが一番の近道だろう。喜怒哀楽の感情が心と体の両面に訪れているときは、人が用いる言葉も、感じている感情によく似たものとなる。だからこそ、流され、楽しいときは楽しいが加速し、哀しいときは哀しさは加速する。ここであるがままに任せて、川の流れのように感情に体と心を運んでもらうのも手段の一つだろう。しかし、基底感情に戻りゆるく、大きく大局的に生きることを捉えたいならば、魔法の言葉が必要となる。いつだってその言葉を問えるだけで、基底感情に立ち戻ることができるような言葉を1つだけ常備しておく。そして頻繁にそれを唱えるクセづけを行う。そうすると、川の流れから抜け出してデフォルトモードに戻ることができる。



別に基底感情が重要だなんてことを考えているわけではない。これは思考の探索であり、自分との対話。対話することは人を癒す力があるらしい。僕はこうした対話を用いて自分を癒しているのかもしれない。基底感情の話をするつもりなんて毛頭なかったのだが、気づいたらそんなことを書いてしまっていた。思考の表面に存在しない、深いところに潜りがちな言葉をもっともっとほじくり出して、自分の正体を詳らかにしたい。

なんだかんだ自分のことを一番知っているのは、最も身近な友人であるというのが最近の勝手気ままな持論である。近すぎることは視界を狭めて、一部分の解像度を極端に高くしてしまう。ここ1年くらい、「全体」を重要視している。構造や、中身だけを見るのではなくて外側や器の存在も含めてしっかりと「視る」を続けていきたい。


さりとて日々は続く。ぴーす

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BOOKOFFで110円の文庫本を買います。残りは、他のクリエイターさんを支えたいです