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何も考えず生きるよりも考えた上で後悔したい

今日も頭が割れそうだ。

偏頭痛と検索して、googleセンコウが教えてくれた3つ目のリンクの概要分に「女性の方がなりやすい」「神経質な人に多い」と記述があるのをみる。

アルコール依存の人間がアルコールという苦しみから逃れるためにアルコールに手を伸ばす事実と同じくらい、偏頭痛に対して明らかになっていることは何年も変わらない気がする。

数ヶ月前からごく稀に視界の端に電気みたいな筋が走るようになった。googleパイセンに聞いてみると閃輝暗点と呼ばれているみたいだ。どうやらそれは偏頭痛と三密関係にあるらしい。

「閃輝暗点を防げば偏頭痛が防げる」と書いてあったが、年齢とともに減っていくらしいことも読み取れた。深刻な病気の可能性もあるのでひどいようであれば病院に行こうかなというヨーグルト並みに固い決意をした。

僕は本題に入る前に全く関係のない前置きをすることが多い、と感じている。ここに僕の恐怖やコンプレックスの結晶が形になっている気がしないでもない。


noteに文章を書くのは本当に久しぶりだ。

最後の投稿は6月11日なので5ヶ月の間旅に出ていたことになる。長い長い旅だった。

旅に出た理由は酸素が欲しかったからというシンプルな理由だった。周りの人間が容易く吸って吐いている酸素を、どうしても同じように扱うことができなかったので酸素の扱い方を学ぼうと思った。これは単なる例え話であって酸素や吸い方に特に意味はない。

旅の中で身を削るような挑戦をたくさんした。心が痛むような意思決定をした。ブレイブストーリーの空の上のシーンみたいに自分と戦った、いや自分とは闘い続けている気がする。旅の途中でだれもが一度は空を眺めるように僕自身も立ち止まり何度も空をにらんだ。

生活の多くが変化した。
まず大学院に合格し進学することが決定した。入学金を貯めるために全く新しいことに挑戦しお金をいただけるようになった。そして隣人の問題解決を一つ一つこなしていくために自分の儚い命を燃やしたいと心から思えるようになった。

多くの人と関わるなかで自分自身の形が見えてきた。人がハグをするのは自分自身の形を確かめるためらしい。やっぱり誰かと居て初めて自分が発見できる。

自分を発見したと同時に人生に対する責任をやっと持てた。例えば自分の人生を生きる責任。人として息をして、ご飯を食べて寝る責任。おかえりといえばただいまと返す責任。頃合いを見て伸びてきた爪を切る責任。飼い犬にご飯をあげ、水を換える責任。そして、大切な人に恩返しする責任。

こういった責任を抱えて、生きるとはどういう意味か定義できるようになった。これは自分自身でも大きな成長だと思う。

思想・哲学に関して博識な知り合いと話している時、言葉の定義について議論した。言葉の定義は一様ではないし固定されない。実は言葉に定義なんて存在していないという考え方もできると聞き、驚いたのを新鮮に覚えている。

言葉は難しい。伝わらないからこそ、「伝えたい」という思いが生まれてコミュニケーションの温度が上がる。もし仮に、考える言葉の意味全てが伝わったなら、そんな世界はディストピアだ。きっと誰も、必要以上を伝えることはなく、会話すら最小限で終わるだろう。

「コミュニケーションは伝わらないからこそ美しいものである。」

この言葉を教えてくれた知り合いの方には本当に感謝している。昼休みの睡眠から覚めた後、徐々に焦点を合わせていく時のように、見える世界の解像度がぐんと上がった気がした。

やはり言葉は面白い。

「言葉で世界を変えたい」
などのキャッチコピーやスローガンを掲げている人を見ると「どういう意味ですか?」と聞いてしまいそうになる。しかしそれこそはケルプロンケン、要するに一巻の終わりである。

最近気をつけていることがある、会話ではなく対話をする時、議論をする時相手を選ぶようにしている。興味のあることに対しては真剣に熱く質問をしてしまうが、全ての人間が質問攻めを好むわけではないし、むしろ嫌われる場合の方が多い。

「言葉で世界を変える」と誰かが掲げた時、この「言葉」の意味はなんだろう。「世界」とはどの範囲の世界を指しているんだろう。「変える」とはどういった影響を及ぼすことを意味しているんだろうというふうに疑問は尽きない。

このフレーズだけではない凡そ全ての発言や言葉の定義が気になる。日本語話者の数だけ、1つの言葉に対して込める思いが違うため、定義が異なる。それなのにこの世界は、そんなことは大したことでもないかのように悠然と進んでいく。壮大だ。言葉について話だすと止まらないことも、朝食のフルグラが胃に重いことくらいの明確な事実かもしれない


半年間の旅の間、僕は僕自身に素直であれたような気がする。周囲の評価を一切気にせず、社会の波からも完全に離れた。自分だけの物差しを整えて整えて綺麗に整備した。

そして、自分にとっての世界とはどういうものか。価値は何かを必死に見つけ出す作業をずっっっっっっと一人で行っていた気がする。もちろんサポートしてくれた方がいるが。


「今、人生が楽しい。」

違う、これじゃあきっと、あなたには伝わらない。

「僕は人生を愛している。」

「人生を愛している」が、僕は自分のことが嫌いだ。
嫌いな人間がいない。どんな人間ともコミュニケーションができる。誰かを嫌いになれる人が羨ましいとつくづく感じる。嫌いになれるというのは自分を信じていないとできないことだから。それは才能だと思う。

「僕は自分のことが嫌い」と聞いた時にネガティブな想像が浮かぶだろう。
「僕は人生を愛している」と聞いた時にポジティブな想像が浮かぶだろう。

「嫌いだけど愛している」という表現は矛盾していそうで矛盾していないと少なくとも僕は思う。

高校生のある瞬間から、99人にとってのヒーローになることを諦め、1人と一緒に涙を流せる人であろうと決めた。

この年齢になって漸く、その一歩に立てたような気がする。
こんな僕だから見えるものがあり、こんな僕だからできることがあるとわかってきた

だからこそ人生を愛することができているのかもしれない



重い腰を上げて、久しぶりにnoteの街に戻った。
ここまで書きたいことが溢れてきて取捨選択に困ることになるとは予想もしていなかった。

僕の人生には言語化が必要だ。

今後も、少しずつnoteの街で活発に生活をしていきたい。

時間の許す限り楽しく、そして半年間空いても待っててくれた方々にもお礼周りをしたい...。

将来達成予想の目標のために、日々時間を消費している現在、正直いって若者のくせに時間は少ない。それでもできるだけ家に明かりを灯しておくので、ノックしづらい方はポストにいいねだけでも残していっていただけると嬉しかったり、、します。


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ただいま

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