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親友が闇落ちした話

闇落ちした親友の話

昨年、親友と決別した。十年間ほどつづいた友情は唐突に終わりをむかえた。今思えばあれを友情と呼んでいいのかわからない。親友だった彼女は私たちを「家族」と呼んで喜んでいた。私は一度も私たちを「家族」とは呼ばなかった。喉に何かが詰まったように、そうは呼べなかった。
心に関しては誰しも問題を抱えているだろうけれど、彼女はたしかに厄介な問題を抱えていた。おそらく軽度の発達障害だったのではないかと思う。それが発展してパーソナリティ障害の傾向がみられた。慢性的な虚言癖、強すぎる被害者意識、他者を利用することに対する罪悪感の皆無。それに加えて高すぎる理想と自己との大きなギャップがあった。彼女はお金が大好きだったが、なかでも好きなのは他人の金だった。もともと優れていた容姿にちょっとした整形を施して27歳まで水商売をしていた。どの芸能人と寝ていくら貰った、という話が彼女のお気に入りだった。
どうしてそんな人間と友達だったのか?一言でいうなら私は彼女が好きだったのだと思う。彼女は問題を抱えていたけれど、素直で魅力的な女の子だった。彼女を魅力的だと思っていたのは私だけではない。彼女はたしかに人を惹きつける才能を持っていた。彼女の弱さを自分が理解してあげたい、自分にならそれができる。そう思わせる特別な何かがあった。
今となってはそれが特別なものなんかじゃなかったことを理解している。他人にそう思わせるのが上手い人間というのがほかにもいることを知ったからだ。
彼女との友情に幕引きをした理由は話すと長くなる。あまり好きな言葉ではないけれど、こう表現するのがおそらく簡潔で要領を得ているのだと思う。つまり彼女は闇落ちしたのだ。

発達障害と闇落ちのマッチング

大人のADHDや大人の発達障害といったワードが流行してしばらく経つ。私の周りにもクリニックでADHDの診断を受けたという人が複数いるが、不思議と彼ら/彼女らは嬉しそうだ。完治して喜ぶのなら分かるが、病名を与えられて喜び、あらゆるプロフィール欄に「ADHD」と追記するのはなぜだろう。当事者にしかわからない苦しみもあるだろうが、あえてはっきり言うと精神疾患は一部でブランド化している。ひとつにはいわゆる天才と呼ばれる偉人に発達障害、ADHD傾向の人間が多いという風潮があるためだろう。自分もその一派だ、ちょっと変わり者の天才だと認識してくれ。そういうことなのだろう。こちらの人々はまだ可愛いもので放っておいても害はない。
害があるのは周囲を巻き込むタイプだ。自分は病気なのだから間違いは放免されて当たり前、優しくしてくれない人間は鬼畜、誰よりも自分を優先しろ。なぜなら自分は病気で他人より優しくされる権利を持っているから。
正直に言うと、後者のほうがたしかに病状としては深刻だろう。どこまでが身勝手な甘えで、どこからが病気によるものなのか判別が難しい。そもそも精神的問題を抱えて成長した過程で生まれた性格のねじれもあるだろう。この手のグレーゾーンに属する人間は、実は闇落ちと非常に相性がいいのではないかと考えている。
というのも絶縁した先の親友も自分の病気を免罪符として振りかざしていた。自分は病気だから何をしても許される。他人を傷つけることも、果ては小さな命を奪うことですら「自分は病気だから仕方ない」と本気で言ってのけた。誰も言い返せない切り札を振りかざせば、どこまで落ちても許されるどころか気遣ってくれる。現実的な闇落ちへの暗い穴がたしかにそこに口を広げていた。
じっさい、映画や小説で描かれる闇落ちキャラは元の性格が不安定なことが多い。当然だけれど心身ともに健康でまともな倫理観を持った人間はなかなか闇落ちには至らない。

闇落ちという「かっこいい到達点」

ダークサイドに魂を売って「あちら側」の人間になり果てるニヒルなキャラクターは昔から描かれてきたのだろうが、近年はとくに流行化している気がする。最近でいえば『ストレンジャー・シングス』のヴェクナ、『ジョーカー』のジョーカーなどがそれに当たるのだろう。漫画やアニメでも悪役に「闇落ちした普通の人間」を描くことは多いように思う。闇落ちした悪役は、主役の対極としてそれなりの存在感を持っていないといけない。というわけでこうした悪役たちはダークながらに魅力的なキャラクターとして描かれる。ときにその複雑さやカリスマ性から正義のヒーローよりも魅力的な存在に上り詰める。
しかしながら私はこの現象に不安を隠せない。闇落ちが一種の恍惚の形態として美化されすぎていないだろうか。あるいは一部の人間にとって安易な「現実の最終兵器」となり始めてはいないだろうか。社会的に弱い立場の人間が、虐げられ、ないがしろにされ、守るべきものも捨てるものもなくなったとき、そこに一発逆転の選択肢がある。それこそが闇落ちだ。闇落ちすれば普通で平凡な自分も主役級に輝ける。ここまで落ちたのなら開き直って「あちら側」に行けばいい。『ジョーカー』を観ても、まるである種の到達点かのように闇落ちが美しく描かれている。ただの逆恨み殺人を描いているだけなのに。

定型化された選択肢としての闇落ち

先日、恋人とケンカして落ち込んでいた私は恋愛で落ち込むといつもそうするようにノラ・ジョーンズを聴いた。他人から見ればダサいことこの上ないが本人は真剣だ。ノラが歌う切ない恋心ほど私の傷心と似たものはない。恋愛で落ち込む=ノラ・ジョーンズの世界観に浸る、というのは私が好む選択肢だ。
ここで注目したいのは気分にも型があり選択肢があるということだ。というか、なんらかの定型に精神をはめこまないことにはやってられない、という心情は誰しも経験があるだろう。モヤモヤと肥大化して自分の手に負えない気分や感情を、すでにある型にはめこんで落ち着かせる。友人と話して解消できる場合もあるが、一人ならば自分の気持ちをぴったり歌ってくれている曲や、自分を描いたような映画や小説、漫画なんかを探すかもしれない。
そうして探す心の拠り所も、流行っているものが最初に目に留まるのは自然なことだろう。たとえば不安定な精神で健常な判断を欠いた人間が打ちのめされた気分で心の靄を晴らしたかったらどうなるか。『ショーシャンクの空に』で心は晴れるだろうか。もしこの人物が尊大な自己も持ち合わせていたら?なんだか流行っていてニヒルでかっこいい「闇落ち」という選択肢に心惹かれないと言い切れるだろうか?
私には闇落ちの美化と、日本国内で多発している猟奇的な事件が無関係だとは思えない。社会的に失うものがなにもない人物が元首相を手製の銃で殺害したり、ホスト狂の20代の女性が我が子を浜辺で焼いたといったニュースを目にするたび、私は失った親友の顔を浮かべずにはいられない。彼女も「あちら側」にいってしまったのだと思うと胸が苦しくなる。
闇落ちはフィクションにとどまっていない、というのが私の見解だ。ヴェクナが異世界にとどまらず現実世界に侵入してきたように、我々の現実のあちこちで闇落ちへの誘惑がたしかに甘く香っているのではないだろうか。

狂気と自分勝手の境界で

親友と会わなくなって約1年が経った。彼女の存在は私のなかでまだ不可解で理不尽な謎として残っている。「そういう人間はいる。事故にあったと思って忘れるしかない」。周囲の人はそう言ってくれる。だけど私にはどうして彼女が闇落ちに至ったのかを理解したい思いがまだ残っている。それは彼女のためではなく私自身のために。
先日、実在した連続殺人鬼のジェフリー・ダーマ―を描いたドラマ『ダーマ―』を観た。彼もまた現実世界で闇落ちした人間のひとりだ。17人の被害者と食人というセンセーショナルな要素からメディア化されるのはこれが初めてではない。狂気的な犯罪者に陶酔する人間は昔からいるが、彼の狂気的な殺人にもいろんな意味でファンがついたようだ。そうでないとドラマとして成功なんかしない。
ドラマを見終わったあと、私はいろいろと考え込んでしまった。そして思った。これは狂気というより病的に自分勝手なだけじゃないか?と。自分の願望や都合のために関係のない他人を傷つけ、命を奪い、それに対してなんの罪悪感も抱かない。なぜなら自分はそれで満足だから。彼にとって他人なんて自分を満たすための玩具でしかない。
非常識的な身勝手さを狂気と呼べないこともない。けれど私にはそれがタチの悪い子供のわがままに思えて仕方ない。闇落ちという現象は現実にあっても、ドラマで美しくヒロイックに描かれるそれはフィクションの域を出ないのではないか。そもそも美しい狂気なんてものが本当に存在するのかすら怪しい。

失った親友について考え続けているが、いまだに私には理解できないことが多い。彼女について考えるうえで闇落ちや狂気について私なりの考察をした。私と同じような体験がある人たち、あるいは彼女に似た人たちにとってなんらかの善きヒントになればいいと思う。