人生に期待なんかしていいに決まってる(ただし正しく期待しよう)
先日読んでいた本で、こんなことが書いてあった。
「落ち込む人ってなんなんですかね、どんだけ自分の人生に期待してんだって。」
その方は自分の人生に期待などしていないから"期待外れ"みたいなことがなくて落ち込まないのだそう。
私はそれを読んでこう思った。
嘘こけ。
釈迦でもなければ、人は生きている限り自分の人生に何かしらの期待をするに決まっている。そんなの当たり前だろう。
片思いしている相手が実は自分のことを好きなんじゃないかとか、道を歩いていてたまたま大沢たかおとすれ違わないかなとか。
ここまで大げさじゃなくても、あの仕事うまくいかないかなとか、今日なんかいいことないかなとか。その程度のことは考えるだろう。
大人になるほど、人生に期待しすぎることをまるで親の仇のように否定する人が増えるのはなぜか。
それはおそらく彼らが傷ついたからだと思う。
若いころ人生にたくさん期待をして、たくさん敗れたのだと思う。そうやって彼らはたくさん傷ついたのだ。
そして若い時分に夢に破れた多くの人がそうであるように、彼らは口をそろえてこう言う。
「人生に期待なんかするな。自分の人生を大きく捉えるのはケツの青いガキのやることだ。テメエみたいな小物の人生はしょせん小物の人生なんだよ」
少々言葉は荒いが、このくらいの熱量(あるいは荒涼感)がそこにはある。
私も若いころ、荒んだ大人に似たようなことを言われたことがある。そして私はひどく傷ついた。どうしてそんなことを言うのかと。
それに関しては、つまりこういうことだと思う。
優しい人はみんな傷ついた人だが、傷ついた人がみんな優しくなるとは限らない。
そして、あえて言うが彼らは間違っている。
たしかに人生に期待をするとだいたい期待外れで終わる。しかしそれは期待の仕方が間違っているのだ。
つまり、私たちは人生に「明確な期待」をしないほうがいい。
意中の相手と実は両想いなんじゃないかとか、自分の誕生日に元カレが連絡してくれるんじゃないかとか、欲しかった仕事がまわってくるんじゃないかとか、その手の期待だ。
「明確な期待」とは、あくまであなたの頭のなかで作り上げた「妄想」であり、もはや「期待」でもない。
あなたの人生はたしかにあなたのものだけれど、たくさんの人々や物事が複雑な時間軸のなかで絡み合って構成されている。
あなたの人生で起こる多くの物事はそうした未知数の要素が偶発的に絡み合った結果であって、誰かの意志やコントロールのもとには動いていない。
そんな偶然の連続のなかで、私たちが能動的になにかを成せる部分はとても小さい。だから私たちの妄想はなかなか実現しない。
けれど、だからこそ期待していなかった恩恵がときどき現前したりする。いつ、どこでそれが現れるかなんてほとんど分からない。でも、それは絶対に起こる。
私は声を大にして言いたいのだけれど、私たちは自分の人生に期待していい。それぞれにとって大事な一度きりの人生なのだ。そこに大小も優劣もあるわけがない。
私たちはそれぞれに人生に期待していい。人生は期待するに値する。私は本気でそう信じている。
ただしあまり明確な期待はしないこと。毎日を丁寧に過ごしながら、ときどき現れる幸福を静かに噛みしめること。
大げさな妄想に比べればたしかに地味だが、自分の想像力がちっぽけだったと思えるほどの素晴らしい瞬間がたしかにあるのだ。
私は人生に期待することをやめたりなんかしない。ケツの青いガキだと言われても私は自分の人生に期待して、驚かされながら生きていきたいと思う。