食べるということと、生の本能を見せ合うことについて。
一人で食べる夕食はどんな味付けをしても不味いんだ。
というセリフを映画で見たことがある。
たしかに一人でご飯を食べていると寂しい。虚しい。
謎の罪悪感がある。
なんだか許されない気持ちになってしまう。
逆に、誰かと会う口実に人は食事をだしに使ったりする。
美味しい食べ物は、正義で、インスタ映えの7割は食べ物だ。
でも、なぜ人は一緒に食事をすることを大事にするんだろう。
思えば、結婚式もお葬式も何かしら口にする。
食事は、もう儀式といってもいいかもしれない。
対面し同じものを口に運び、やれ美味しいだの、彩がキレイだの、他愛のない話をする。
食事を終えると、まるで仲が深まったというように別れていく。
おそらくこれは何年経っても人間である限りなくならない習慣だと思う。
一つ、思うのは食べるという行為は
生の行為を分け合う、ということではないか。
意図的に何かを分け合うという場の無理やりにでも形成している。
生の行為とは何か。それは欲だ。
欲というものは文明社会になった今、見せてはいけないもの、隠すべき存在になった。
それは急所にもなりえるからだ。
性欲も睡眠欲も人目がある場所ではなかなかに取りづらい。
でも、食という物だけは唯一見せても良い欲望である。
食べ物を選び、箸やフォークなどという武器で突き刺し、肉を引きちぎり、やがで自分の肉体の一部へと押しやる。
野蛮である。本能の行動である。
しかし、なぜか。剥き出しの欲望を共有することで、我々人間は新しい関係性を持てるのである。
その人がいなくなった場を作る。
二人が一緒になった場を作る。
そのために同じものを食べたり一つのものを囲んだりする。
剥き出しの本能を見せ合うこと。
それは、言葉の発展により武装を覚えた人類たちの
武器の捨て方なのではないか。
本能というお互いの弱みをワザと見せ合うことで、無理やりに壁をなくそうという試みではないか。
だから、逆に食事を一緒に取る、という行為は
文明を持ってしまった私たちが、不器用にも人と繋がるための方法として考えた「型」であり、作戦の一つである。
このチャーミングな欲望のため、飲食業界は発展してきた。動物の本能に近づく行為が逆に文明の成熟を促してきたのは趣がある。
「あなたと食事にいきたい」ということは、「あなたと本能を見せあい、近づきたい」という証拠でもある。
もう一つ、児童文学のなかで好きなセリフがある。
食いしん坊はしあわせだ。1日3つの幸福がある。
毎日、幸せな食卓にする。
現代を生きる孤独な本能たちの義務でもあり、権利でもある。