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『ハリー・ポッター』主人公達の絶妙な関係性=「ファンタビ」に欠けているもの

説明不要の大人気シリーズ『ハリー・ポッター』。舞台化もされ、その日本版の公開も控えている本作。その素晴らしさを挙げたら枚挙にいとまが無いですが、中でも魅力的なのは主人公達の関係性だと思います。そしてそれこそが、のちの続編『ファンタスティック・ビースト』シリーズでイマイチ足りていないことではないかと思うのです。

ハリーと観客の視線の一致

主人公達3人、ハリー、ロン、ハーマイオニーはそれぞれ異なる出自を持ちながら魔法の素質を見込まれ、「ホグワーツ魔法魔術学校」に入学し意気投合します。3人は数々の困難を、息を合わせて乗り越えていきますが、それぞれ異なる環境で生きてきたことに由来する「物事への視点」や「許せないこと」が異なっており、それが仲の良さにつながったり、仲違いを招いたりします。

まず、主人公・ハリー・ポッターは生まれて間も無く闇の魔法使い・ヴォルデモートに両親を殺され、意地悪で非魔法使いの叔母家族に引き取られます。そんな非魔法使い=マグルの世界で育ったハリーが、11歳の誕生日に自分が魔法使いだと知らされることから本作は始まりますが、マグルの世界で育ったことにより、ハリーが魔法界で体験することは見るもの聞くもの全てが新鮮で驚きに満ち溢れています。また、意地悪な親戚の家で辛く窮屈な思いをしてきたハリーにとって、今までいた場所以外に新しい(真に自分がいるべき)世界があるんだと知ることそのものが、彼にとっての「心の解放」にもつながります。つまり魔法的なもの全てがハリーにとっては「驚き」であると同時に「喜び」であるのです。

それは本作を観る観客の視線とピッタリ重なります。観客がスクリーン上で驚くべき魔法の技の数々に魅了される気持ちが、そのまま主人公の喜びや解放と重なる。つまり「視覚的情報」「物語的情緒」が何に邪魔されることもなくピッタリ主人公と重なり、感情移入できる為、観客は自然に物語世界へと誘われ、素直に描かれる魔法にワクワクすることができます。

すごく当たり前で基本的な物語手法を語っているようですが、そこを上手く描けていないのが『ファンタスティック・ビースト』シリーズだと思うのです。

ファンタビのチグハグなキャラ配置

「ファンタビ」シリーズの主人公・ニュート・スキャマンダーは、魔法界で長年暮らしてきた魔法生物を研究している青年です。つまり魔法界で起こる驚くべき魔法の数々は見慣れた「日常風景」でしかありません。しかし本作で描かれる魔法生物や魔法描写は本作が初出のものも多く、観客はそこに「センス・オブ・ワンダー(=SFやファンタジックなものへの驚き、知的好奇心の喚起)」を抱きますし、映画の制作者側としても作中起こっていることを「すごいことが起こっているでしょ?驚いてね!」といったふうにたっぷり描いています。その、観客制作者「驚きたい/驚かせたい」という気持ちが、主人公の視線=「驚かない」とマッチしないため、取りこぼされてしまうのです。

本作を観たことのある方なら「“作中の魔法に驚く役目”ならいるじゃないか」と思われるかもしれません。そう、マグルのジェイコブです。確かに彼はその役目を担っていますが、逆にその役目でしかないキャラなのです。
彼はひょんなことから主人公と出会い、偶然魔法界に足を踏み入れてしまう「巻き込まれキャラ」です。マグルの彼にとって、魔法界で体験することは一々新鮮で驚きに満ちていますが、だからといってその体験が「彼の夢=自分のパン屋を開くこと」を叶えることに繋がりはしません。

それならそうで、強い動機を持つ主人公に困りながらも渋々着いていく彼の目線で、観客は物語を追いかけていけばいい。つまり主人公に感情移入するのではなく、相棒キャラの目線を借りて主人公を仰ぎ見、憧れを抱きながら進んでいけばいいかもしれません。そうした所でジェイコブがニュートの仕事に無関係なことに変わりは無いのですが、しかし本作はもっと酷いことに「巻き込まれキャラ」のジェイコブが巻き込まれたニュートもまた「巻き込まれキャラ」なのです…!

特にこれは2作目、3作目と顕著になっていくのですが、「ファンタビ」では「ハリポタ」よりも前の時代に暗躍した闇の魔法使い・グリンデルバルドの陰謀が描かれます。このグリンデルバルドを打ち倒すことが「ファンタビ」のメインストーリーになっていくのですが、ラスボス・グリンデルバルドと主人公・ニュートは、全然関係ない他人なのです。
なんというか「宿命的な強制力」がなく、ただ「グリンデルバルドに対抗している味方陣営の実力者(若き日のダンブルドア)に信頼されているから」任務を任されているに過ぎず、現在のところニュートはグリンデルバルドに対してなんら個人的な恨みはないのです。
「やつは魔法生物を軽んじている」とは言うものの、それは彼の主な行動理念と言うわけでもなく(つまり「魔法生物の根絶こそがやつの真の目的!」などではなく)、もちろん一般的な意味で“悪”で、“滅ぼすべき敵”とは認識しているようですが、これでは完全に「巻き込まれキャラ」に過ぎません。

つまり関係ない事件に巻き込まれた人に巻き込まれた関係ない人達による、関係ない夢や陰謀を語られても、それは観客にとっても関係ないことなのです。
そんなものだから、観客は物語を追う中で誰の目線を借りて何を観続ければ良いのかを見失ってしまうと同時に、作中描かれるとても不思議でワクワクする魔法が、物語上の意味をまるで伴っていません。何なら本作において「驚くべき魔法」のシーンは、ストーリーの進行を停滞させてしまうシーンにさえなっているのです。

それでもおそらく「ハリポタワールド」を作り続けていく上で「夢のような魔法世界の様子」を描くことは観客の大きく期待する点であり、それがこのシリーズの強いアイデンティティになっているので描かざるを得ない。でもそれが物語と有機的に噛み合っていない…。その苦慮や葛藤の跡が、出来上がった映画にはありありと表出してしまっています…。

ロンにとって羨望と嫉妬の対象・ハリー

再び「ハリポタ」に戻ってその点を見てみると、「ハリポタ」がいかに見事なキャラクター配置によって成り立っているかがわかります。
ハリーにとって、魔法界での体験が掛け替えないものなのは上述の通りです。そしてシリーズを通しての最大の敵・ヴォルデモートはハリーの両親の仇敵であり、また2人の間には魔法的な“絆”が生じてしまっているという設定上の必然もあり、両者は切っても切れない宿命で結ばれています。
そしてヴォルデモートはハリーの両親を殺した際、なぜかハリーだけは殺すことができず、1歳にも満たないハリーはヴォルデモートを退けたことで、「生き残った男の子」と呼ばれ魔法界では伝説的な有名人になっています。そしてそのことこそがハリーの唯一無二の親友・ロンとの関係を揺さぶるのです。

ロンは魔法界の家系に生まれ、その後ずっと魔法界で過ごしてきた為、ロンの常識は魔法界のものです。それによるロンの単純な物語的役割は「ハリーの体験する魔法界での出来事の説明役」になります。
そして同時にロンは7人兄弟の6番目で、幼い頃から(良くも悪くも)才能溢れる兄達と比べられ、からかわれてきました。そんな環境で育ってきたロンの心の根幹を成しているのは「羨望」や「嫉妬」、「自己顕示欲」です。そんな優秀な兄達の中で比べられ悔しい思いをしてきた人間が、入学初日に仲良くなってしまうのがよりによって魔法界一の有名人・ハリー・ポッター。なんという悲劇。家の中で兄弟達の影に隠れた末っ子が、学校でさえも「ハリー・ポッター」というビッグネームの影に隠れる存在になってしまう。そのせいでロンは幾度もハリーと仲違いを繰り返します。そしてそれを乗り越えることがロンに課された「破るべき殻」と言えます。ハリーとの関係そのものが「ロン・ウィズリー」というキャラのテーマになっているのです。

これが物語における有機的な人物配置と言えます。それがあった上で、ハリポタの「ワクワクする魔法界の様子」が描かれ、結果として世界中の観客にウケたのだと思います。そこがチグハグに、おざなりになってしまっているのが「ファンタビ」の欠点だと思います。

役割の被り方が違うハーマイオニーとティナ

他にも役割分担が似ているけど、決定的に異なっているという点を挙げるなら、ハーマイオニーとティナです。2人ともメインキャラクターの女性ですが、どちらも物語的役割が他のキャラと被っているという共通点があります。しかしその被り方が違うのです。

ティナは魔法省という政府の役人で、ニュートを事件に巻き込む役目です。しかしティナは魔法省の中でもはぐれ者で、しばしば上司の言葉を無視して自分勝手な行動をする節があります。それは2作目で出てくる若き日のダンブルドアと役割が被っています。
ダンブルドアもまたニュートに任務を(半ば強制的に)任せる「巻き込み役」でありながら、政府としばしば対立し我を通そうとする人間です。この全く同じ役割を担っているキャラが同時に存在することで起こることは、どちらかの背景化です。つまり2作目でティナは物語上の役割を失い、主人公にとってはメインストーリーとは無関係の「ロマンスの相手」でしかなくなります。ニュートとティナの恋が成就した所で、グリンデルバルドの野望が阻止される訳でもありませんし、ティナと結ばれることが『ファンタスティック・ビースト』の最大の山場(目的/クライマックス)ではありません。

その点、ハーマイオニーの「ハリポタ」での役割は「知識」です。
「知識」を主人公に授けるキャラは先述のロンと被っていますが、被り方が違います。ロンがハリーに授けるのは「魔法界の常識/慣習」で、ハーマイオニーがハリーに授けるのは「歴史」「専門的な技術」です。
例えるなら、「勇者に剣を授ける賢者」の役割を担うのがハーマイオニーで、「勇者の日常を司る友人」がロン、という分担になっているのです。なのでこの「主人公に知識を与える役割」である両者が同時に存在していても互いを打ち消し合うことなく共存できます。
また「ハリポタ」における老ダンブルドアも「知識を授ける者」ではありますが、これはどちらかというと一歩引いた存在なので、例えるなら「宝の地図」的な存在です。主人公の傍らにいるのはいつだってハーマイオニーです。

以上のように2作品は、同じシリーズで、世界観を共有し、キャラクター配置も前作に倣っているようでいて、その実態は全く異なっているのです。その根本的な構造の違いこそが両作の明暗を分けているのではないかと思います。

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