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宮台真司氏襲撃事件から考える共同体とネット世界

Привет!
 お久しぶりです。更新の手が止まってしまい、また三日坊主の癖がでてしまったなと変わらぬ自分の性格が逆に愛おしいく思えてしまう今日この頃ですが、最近のニュースで衝撃だったのが宮台真司氏が暴漢に襲われ重傷を負ったこと。
 宮台氏は、このなんか無気力で閉塞感漂う世の中をシニカルに批判する論者として有名ですが、安倍元総理のこともあってか著名な言論人への襲撃というのは戦前の混乱期を彷彿させます。
 今回宮台氏を襲った加害者は未だ素性が明らかになっていませんが、宮台氏を狙った何かしらの理由があるのは確かで、それが判明するのも時間の問題でしょう。ただ、この事件をきっかけに想起させられるのが、やはり共同体の衰退と現実世界へのネット的思考の流入だということです。

共同体

 共同体といっても色々と定義はあるので、ここでは僕自身の捉え方で手短に説明する(学術的な寄稿ではないのでご勘弁)。

 共同体は地域や家族といった地縁的・血縁的な繋がりから企業や組合といった労働、経済的な繋がり、また宗教といった信仰を基盤とする繋がりにまでわたるが、これらは複雑に絡み合うものの共通して生活と特定の価値を共有しているという側面がある。

本記事における共同体の定義は宮台氏やM・サンデルのいうコミュニタリアニズムに沿ったもの         

 人は共同体のなかで自己を認識し、社会における自分の居場所を繋がりとともに確立していく。また共同体のなかでは相互に監視が働いているため、過激な言動というものは基本的に慎むものとされ秩序が一定程度保障されている。よく田舎は閉塞的だ、人は隠居だという人たちがいるが、その人がそういった共同体に合わないだけであって、社会の秩序や人の生きる根源となる社会的繋がりを担保する共同体の有益性を考慮するとそういった攻撃は控えるべきだと僕は考えてしまう(そういう意味では創価学会問題や旧統一教会問題も、信仰のもとに集う人々の繋がり自体は確かなものであり、無作為に信者を批判し攻撃することは思慮が欠如しているといえる)。

 また共同体は田舎といった単位だけではなく、学校や地域型の幼稚園や保育園も共同体とみなせる。つまり、地域という共同体を一つとっても、様々な共同体が含まれているのであり、かなり多元的で複雑なのだ(大平正芳や香山健一の思想である『日本型多元主義』が戦後の共同体の捉え方としてはよい例だろう。彼らは国家による統制ではなく、地域や職場、家族といった共同体のそれぞれ独自の役割を重視し、経済発展が一段落した日本の次の発展には自立した共同体が必要であると考えていた)。そういったアイデンティフィケーションは人が社会的動物として生きていく以上不可欠なものであり、それなくして人は存在できずそして社会の発展もないのだ。

共同体の衰退とネット世界の拡がり

 2000年以降、共同体が衰退していく一方で、ネットというある種の社会が拡大していった。ここでもあくまで僕の考えを展開していく。こうやってネットを利用している立場でありながら、ネットをなにも悪とみなして攻撃する訳ではないが、ネットの負の側面に焦点を当てたい。

 物事必ず負の側面は存在する。ネットの庶民的な発展と拡がりは皮肉なことに日本のバブル崩壊期と重なる。

 オイルショックからの回復後、円高や市場のグローバル化の影響もあって共同体としての企業の形が合理的な経営判断や構造改革の名のもとに大きくシフトチェンジしていく。その後、社会にでてくる若者にとって共同体として重要な受け皿となる企業が、バブル崩壊と平成不況の最中次々と雇用できる力を失ってしまう(宗教的共同体が根強い欧米と比べると、日本にとって企業の共同体的役割の重要性は高い)。

 また、日本人自身も戦後復興のような社会における共通の価値や目標を見出せなくなり、日本という一国の共同体としての在り方が変化していった時代、そんななかで余分な富の捌け口が、陳腐なメディアや起業家の手引きもあって狂ったような拝金主義的な方向に集中する。戦後という分断された社会が何とか成熟した折に多くの人々が今だけ、自分だけの拝金主義的方向に突き進んだばかりに、安定した共同体の運営方法、つまり生の繋がりを築く方法を忘れ、その受容体を育む経験を各共同体が過去に比べ提供できなかった結果、人心の荒廃につながったのではないか。
 
 また、平成不況にはいり雇用の不安定化により、経済的焦燥感に駆られる若者が続出した(所謂氷河期世代)。更に社会の高齢化、若者の都市部への流入といった現象により地域が様変わりし、かつては繁栄を誇っていた様々な共同体が自壊していく。その社会にあって人々は孤立化し、安価な繋がりを求めて流入したコミュニティーの総体こそ、僕はネットだと感じている。

 ネット社会では、手軽に人との繋がりを感じることができる。しかし、前述した相互の監視が働かないこと、そして個人の素性を明かすことが不必要なことから暫し現実の社会における人間の相互関係から乖離した現象が起こる。また、ネット社会はコミュニティーの乗り換えが安易なことから同じ意見を持った者同士が固まり、一方的な意見の押し付け合いが集団間で起こる傾向にもある。そして残念ながらこのク○ともいえるコミュニティーの在り方がスマホなどの媒体が普及したことでインターネットにアクセスが容易となり実社会にも浸透し始めている。

画面越しの社会と画面外の社会の違い

 ネットと我々が衣食住をする世界ではどう違うのか。

 ネットでは、前述の人との繋がり方の違いに加え、多くは僕の定義にもあるように生きるうえで必要な生命維持活動(生活)を共有されていない。そのため、ネット民の間では緊張関係や互いに支えあう生の共通価値がなく、個人情報の開示も必要ないことから簡単に相手を誹謗中傷したり、世間では受容されない言動を可能にしてしまう危険性を孕んでいる。このような無秩序のなかで人が学習する他者との繋がりや帰属意識は脆弱であり、本来的には存続しないのが常であるが、無個性のユーザーが次々に参入するネット社会ではそういったク○コミュニティーでさえ継続性を持ち得る。こういった集団、コンテンツのク○加減にも関わらず継続し分散しているネット社会が、現在大人も子供も特に障壁なくアクセスできる危険性は計り知れない(勿論、ネット社会にも健全な関係や目覚ましい新たな価値の進展性はある)。

 また、ネットと現実の境界線が曖昧になる現在、そういった脆弱な共同体で通用するルールや振る舞いを実社会でやってしまうという人の箍(たが)を疑いざるを得ない現象も起こっている。それは人と共同体の繋がりが薄れ、ある特定の職場や地域に縛られる必要がないという認識が可能にしているのか、単に物事の分別がつかなくなっているのか分からないが、今回の宮台氏の事件も、その病理的な社会現象が顕在化した事例なのだと僕は考える。

宮台氏の事件

 宮台氏は本来素性も公開し言論活動を行う研究者だ。彼の発言は物議を醸すことも多々あるが、言論における論争で間違っていると叩くことはあっても、特定の個人を攻撃し被害たらしめるといったことはなかったはずだ。ただネットの社会では彼が際限なく中傷されていることは想像に難くない。
 
 ネット空間における誹謗中傷は比較的自由で際限がない。また、極端な考えを持つユーザーが集まれることで、極端な言論が横行し、時には感化され極端な行動を起こす人間も出現する。今回の事件は宮台氏のこれまでの発言に嫌悪感を抱いた人物が起こしたものかもしれないし、そうでないかもしれない。しかし重要なことは、言論活動とは素性を公開した上で、正々堂々と自分の意見を公で闘わせることであり、社会(共同体)に自分の顔と考え方を晒すリスクが付き纏う。そういった意味において、常にリスクを背負う公の言論者とネットでの痴話喧嘩では意見の重さが異なる

 また、言論の闘いはあくまで意見や考えを闘わせることであり、相手を物理的に攻撃することは言論の流儀に反し唯の犯罪となる。言論の場では、つまり論者を規律する最低限の作法があり、その作法に沿って発言するからこそ言論活動を続ける機会を提供されるのだ。攻撃性むき出しでもお構いなく活動できるルールもへったくれもないネット空間の常識が、実際の世の常識との境界線を越えてしまい、気に入らない言論者はいくらでも攻撃していい、または直接物理的に手段に訴えて黙らせてやるといった安易な考え方を形成する原因になっているんじゃないかと僕はみている。皆さんがどうお考えか知らんけど。

まとめ

 今回の事件は、共同体の衰退、つまりは生の繋がりを実感できない人たちの存在、そしてネット社会から流入する健全とは到底呼べない目に見えない暴力を容認する文化の存在を思い出すきっかけとなった。言論活動はあくまで言論同士を闘わせる健全性があって可能となる。意見を言う場に暴力が介在するとすべてが成り立たなくなる。
 
 元来社会には他者の目というものがある。これは色々と生きづらさを感じさせる原因にもなるが、最低でもこの社会の秩序を保つ原理となる。傍若無人に相手を傷つけられるコミュニティや環境は異常であり、そのような異常性がまかり通る一部のネット空間は日常には存在してはいけないとさえ僕は思ってしまう。共同体とは本来、人が生きるうえで糧となる価値や人間関係を提供する場所で、そして常に他者の存在が包摂される。その他者に対して軽々しく傷つけるような言動はできるだろうか。また周囲はそれを許容するだろうか?許容するような共同体は理性も感情を失っているのであり間も無く崩壊するのが常であることを認識した時、ネット上における異常性に気付くはずだ。

 悪口や愚痴を普段言える人がいない、もしくは性格上言えない人がネット空間で吐き出すのかもしれない。ストレスの捌け口にはなるかもしれないが、なぜ言えないのかという現実にこそ原因があるのであり、放埓な言論空間であるネットは原因を解決する場所足り得ない。けれども、ネット上で行うということは一種の共感を欲している心理の表れだろう。

 ここで想起するのが、映画『Into the wild』でアラスカの大自然のなか孤独に衰弱しいく主人公が残した「Happiness only real when shared(幸せは分かち合ってこそ実感できる)」という言葉だ。誰かの子供として生まれ、誰かに育てられ、誰かとして自己を確立してきたアナタという存在が、人とのすれ違いや大きな過ちの末、人に対して共同体に対して何らかの失望を抱えていたとしても、我々が社会的な動物である以上、幸せは生の繋がりにおいてこそ幸せ足り得る。ネットにもリアルにもその生の繋がりとなる人はいるはずだが、やはり他者がいる以上思い通りにはいかないし、多少の生きづらさを感じてしまう、けれどもそれが他者と繋がる際の面倒臭い側面、それこそがいかに生きるか、自分はどう生きたいのかという命題が生じる泉源の一つであることを思い出してほしい。他者という草藪に分け入っていくことは人として自分として生きていく上で必要悪なのだ。


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