神恵内村祈石(いのりいし)旧道巡り
今回は、知られざる旧道の世界に皆様をご招待します。
道路が新しくなるということは、当然古くなって役目を終える道も出てくる。では、その道たちは今、どうなっているのでしょうか?
その道たちを見ると、昔の人々の苦労が自ずと見えてきます。こんな道を歩いていたんだ、その頃の苦労はいかに・・・と。
古きを温めて新しきを知る、そんな旅に出かけてみましょう。
まずはこの写真をご覧ください。なんとも不思議な橋ですね。崖の一部、波で削られたあたりにうまく岩を利用しながら、コンクリート製の橋が架けられています。そして、そこに佇み、下を見下ろしている4名の方達。
なんとその中の一人は、あの明治の文豪、幸田露伴の娘さんで自身も有名な作家、幸田文(あや)さんなのです。
この場所はどこ?そう思った方は、次の写真をご覧ください。
あっ、この景色、見たことある!という方もいらっしゃるのでは?
ここは神恵内村祈石(いのりいし)、岩内方面から積丹側に車を走らせると見えてくる、綺麗なアーチの続く神恵内四大大橋です。岩内側から「神泊(かみどまり)大橋」「祈石(いのりいし)大橋」「弁財澗(べんざいま)大橋」「魚谷(うおや)大橋」。ここは、現道から旧道、旧旧道を見ることができる、魅力的なスポットなのです。
こちらが、旧道と旧旧道。右側奥に見える塞がったトンネルが、この橋の前に使われていた旧道、そして、左側に見える橋が、今回の主役の橋です。幸田文さんが訪れた時と同じ姿ですね。もう少し違う角度から見てみましょう。
見てください、この佇まい。そしてお分かりになりますか?岩をくり抜いたような半トンネルにかかった橋を抜けると、そこには手掘りのトンネルがぽっかりと口を開けています。
この橋は、昭和37年5月に幸田文さんが訪れた時はまだ現役だったのです。旧道である後ろのトンネル(弁財トンネル)が開通したのが昭和44年なので、それまで使われていたということになります。
これは、特別に許可を取って旧道に入らせてもらい、撮った一枚です。(現在旧道に入ることはできません。)
橋から見える手掘りのトンネルから、新しい橋が見えています。なんともいえない景色!
橋は老朽化のため流石に渡ることはできませんでしたが、コンクリートの柵もついていて、割としっかりした作りです。
さて、幸田文さん。彼女は幸田露伴の次女として生まれ、聡明な姉と一人息子で大切にされた弟の間で「みそっかす」だと思いながら育ったそう。やがて母と姉を亡くし、病弱だった継母に代わって、少女の頃に露伴に家事一切を厳しく躾けられたといいます。そんな彼女の文章は繊細で江戸っ子らしい歯切れのいい文体が特徴で、露伴に鍛えられた美意識を感じとることができます。
そんな彼女が岩内を訪れたのは昭和37年5月4日から5日にかけて。彼女がこの橋の上に立ったのは、二日目の5日だったそうです。
彼女は前日4日に雷電を訪れており、その景色は男性的だと称したそうですが、こちらの景色は女性的だと語ったそうです。確かに、雷電の険しい景色に比べると、こちらの海岸線は滑らかな曲線を描いており、やや女性的な気がしますね。
これは雷電を訪問した時のものでしょうか。昭和30年代を思わせる木造の家と、学生帽を被った小学生の姿が懐かしさを感じさせます。遠く見えるのは、雷電の海岸でしょうか。さて、この雷電海岸、一年前にもある文豪が訪れています。
そう、水上勉です。彼は昭和36年に岩内町を訪れ、そこで洞爺丸台風と岩内大火が同じ日に起こったことに興味を示し、雷電の険しい地形を見て感銘を受け、名作「飢餓海峡」の着想を得たといわれています。
さて、話を祈石に戻しましょう。上の写真は、別の場所から見た旧道。ここは、昔こんな高い場所を、しかも険しい崖のキワを歩いていたのですね。風の強い日に身体がふっと横に揺れたら、と思うとゾッとします。よくこんなところを歩いていたものですね。
昭和23年の空中写真。旧旧道の様子。かなり遠回りですが、こうするしか行き方は無かったのですね。
こちらは、Google Earthで見た現在の様子。3Dなので旧道の様子も見えます。最短距離をとっていますね。
昔は海岸線に沿って岩壁を這うように、次にトンネルを掘って山を突っ切るように、さらにその外側に橋をかけて海を眺めながら、幸田文さんが訪れた時から60年ほどの間に、この道を通る方法も大きく変わりました。より早く、より安全に。インフラ整備が発達していった歴史でもあります。
今の景色を見たら、幸田文さんはどのように思うでしょうね。
資料提供:岩内町郷土館
空中写真: 国土地理院 地理院地図
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