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電車の中にたたずむクロちゃん

私のものではございませんの…

着物に身を包んだご婦人が静かに申し訳なさそうに私に伝える。

思わず耳を疑った。そして疑った耳が一瞬で赤くなった。
やっちまった……完全に裏目に出た。

時を戻そう。

その日はいつもより少し遅い電車で職場へ向かっていた。ラッキー、少し空いてる。クライマックスを迎える小説を読むのを楽しみにしていた。速度を緩める電車を目で追いながら、空いてる席をチラ見サーチ。足早にそこを目指す。

ドアが開いて対面に座っている女性に目がいった。綺麗に着物を着こなしているご婦人。着付けやその道の先生だろうか?髪を綺麗にアップし、背筋を伸ばし、足元は純度100%白の足袋に雪駄。

頭のてっぺんから足元まで隙がない。

ん?

足元に真っ黒のモフモフが2つ?

落とし物?

毛皮?ラビットファー?

電車の中にたたずむモフモフの物体


高級な類の手袋とかハンドカバーだろうか。

踏みならされた電車の床があまりに似合わない。これをクロちゃんと呼ぶことにしよう。無意識に身体が動いた。


「落ちてますよ…」


クロちゃんを手にご婦人に声をかけた。
その返答がまさかの冒頭の一言。


集合!一瞬で血液が顔付近に集まってくる。パニックながらも意外と冷静に頭はぐるぐると回っていた。

えー!クロちゃんの持ち主じゃないの!

こんなんディープフェイクのレベルですやん!

いや、ちょっと待て…
手にしてるクロちゃんどうする?

ノーサンキューなご婦人に渡すわけにはいくまい。

網棚の上に置いてはどうだ?

でもご婦人はそれを望んでない?わからん!

さぁどうする?どうする?

ザッパーーーンと白波だらけで荒くれだった心を鎮めながら、何事もなかったかのようにクロちゃんをそっと元の場所に戻した。そしてご婦人の斜め向かいの席にそっと腰をかけた。

周囲の視線を感じる。親切心失敗おじさんやん。。

私の中に悪魔キャラがいたら「そんなもん放っときゃよかったのさ!自業自得さ!」こう言って私の肩を抱き、笑い飛ばしてくれたことだろう。

再現したかったけど失敗した悪魔と
私のイメージ。夢に出てきそう


席につき、何事もなかったのようにイヤホンをつけ、プレイリストの中から一番心が落ち着くオルタナティブミュージックを流す。そして楽しみにしていた小説を開いた。


穏やかな凪を頭の中で思い描く。


ザッパーーーン!

あんなに楽しみにしていた小説がまったく頭に入ってこない。置き去りにしたクロちゃんが気になって仕方ない。

そもそもクロちゃんよ、君はいつからそこにいたんだ?

ご婦人よ、あなたはいつからクロちゃんを認識していたんだ?

実はこの中の誰かがクロちゃんの飼い主を知っている?

クロちゃんはすでにこの中の誰かに拾われた?

小説を読むふりをしながら、クロちゃんについて妄想を膨らませる。

すぐに電車は次の駅に到着。ベッドタウンであるその駅からは多くの人が乗り込んでくる。ご婦人の目の前に、肩までスラリと伸びる黒髪にリュックを背にしたお姉さんが立った。

直感した。きっとこのリュック姉さんは私と同じ道を辿る……。
「どうかクロちゃんを拾わないでくれ」そう願った。

その刹那、スッと身を屈めるリュック姉さん。


でーあいはースローモーショーン 。軽い眩暈、誘うほどに。

やめて!明菜ちゃん!両手で顔を覆い、大きく開いた指の隙間から覗くような心持ちで行方を見守る。

当然のことですからと流れるような身のこなしのリュック姉さん。そしてクロちゃんを2つ丁寧に重ねてご婦人に声をかけた。

きっと私よりもスマートに優しく。

「私のではございませんの…」

先ほど以上に申し訳なさそうな表情を浮かべるご婦人。

一瞬動きが止まるリュック姉さん。

そしてリュック姉さんは、そっとクロちゃんを元の場所に戻した。思わず胸がキュッとなる。すまない……リュック姉さん。


目を閉じるご婦人。
景色を眺めるリュック姉さん。
小説を空読みする私。
所在なく電車内に存在感を示すクロちゃん。

結局、クロちゃんを置き去りにして電車を後にしてしまった。おそらくリュック姉さんもモヤモヤしながら電車を降りたことだろう。

パニックになった時の一瞬の判断ってなかなか難しい。それにしてもご婦人とクロちゃんのシンクロ率、高すぎるで。

あの瞬間、さらっとクロちゃんを網棚にのせることができなかったことを後悔している。あの後、優しい誰かに拾われて無事持ち主の元に帰れているといいなと思う。


※ 画像はすべてAIで作成しました。

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