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冬籠(ふゆごもり) ~古典文学に見る季語の源流 第十二回~

寒さ厳しくなってくる十二月ということで、「冬籠」を取り上げる。

芭蕉の句に〈冬籠また寄り添はん此の柱〉とある通り、俳句ではもっぱら、人が家に籠ることをいう。『華実年浪草(かじつとしなみぐさ)』(鵜川麁文(そぶん)、一七八三年)にも、「俳諧には人の一間(ひとま)にこもり寒を厭ふをいふなり」とある。

飯田蛇笏の〈たまきはるいのちをうたにふゆごもり〉のように、北国の厳しい冬を思わせる句がある。傍題の「雪籠」はその感の強まった季語である。

ただ、その一方で、寺田寅彦〈人間の海鼠(なまこ)となりて冬籠る〉や夏目漱石〈冬籠り小猫も無事で罷りある〉のような句も多い。寒さに外出も億劫になって、のんびりと家に籠っているのである。

『俳諧歳時記栞草(しおりぐさ)』(曲亭馬琴に藍亭青藍(らんていせいらん)が増補、一八五一年)にはこうした記述がある。

寒風をふせぎて居宅に籠るをいふ。(中略) 草木の凋(しぼ)み冬枯(ふゆがれ)たるをも冬籠といふ。

木々が葉を落とし、草々が枯れ、生気が感じられなくなった冬枯れの自然も、冬籠と呼ぶのであった。この例として、『古今集』、紀貫之の歌を見てみよう。

雪降れば冬籠りせる草も木も春に知られぬ花ぞ咲きける
冬籠り思ひ掛けぬを木(こ)の間より花と見るまで雪ぞ降りける

どちらの歌も、冬枯れた草木に雪が降るのを白い花のように捉えた「見立て」の和歌である。

草木以外に、動物の冬籠りを描いた歌もある。

昨日まで声絶えざりし小牡鹿(さをしか)も冬籠りせし今朝の気色(けしき)か(藤原顕季(あきすえ)、堀河百首)

鹿は歌人にとって秋の風物である。その姿が見えなかった朝、冬の到来を実感したのである。

庭全体の冬ざれも詠まれている。

隙(ひま)もなく散るもみぢ葉に埋(うづ)もれて庭の気色も冬籠りけり(崇徳院、千載集)

なお、人の冬籠を詠んだ歌もある。ほとんどの和歌は京都が舞台となるので、信州の一茶が〈これがまあ終(つひ)の栖(すみか)か雪五尺〉と詠んだような大雪が降るわけではない。ただ、源宗于(むねゆき)〈山里は冬ぞ寂しさ増さりける人目も草もかれぬと思へば〉の通り、山里では、都よりも冬を厳しく感じるものだった。冬籠は山里の語である。

そこから派生した、知的遊戯のような歌もある。

雪とのみ誤たれつつ卯の花に冬籠れりと見ゆる山里(源道済(みちなり)、後拾遺集)

「冬籠れり」と言いながらも、この歌が収められているのは、「巻三 夏」。初夏の季語「卯の花」も詠み込まれている。卯の花が白いので、それを雪と勘違いをしたのか、山里では冬籠りをしているようだ、というのである。卯の花と雪を間違うはずはないが、それほど白く美しい、というわけである。

冬籠の和歌といえば、『古今集』仮名序に引用され、競技カルタで序歌として読み上げられる歌、

難波津に咲くや此の花冬ごもり今は春べと咲くや此の花(王仁(わに))

を連想する人もいるだろう。これは古い枕詞(まくらことば)としての使い方で、春にかかる。『万葉集』でよく見られ、万葉仮名で「冬木成(ふゆこもり)」と字が当てられている。冬の間に力を蓄え、春に芽吹き花咲く草木の姿を描いたかのような表記である。

*本コラムは結社誌『松の花』に連載しているものです(2021年12月号に掲載)。


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