「障害」は、病気じゃない!!〜「治す」ではなく「適応する」性質〜
こんばんは、HSP(推定)で、おそらくはグレーゾーン(名前のつかない、弱い障害の複合)のエイです。
()が多くてすみません笑
今回は、私が「なにかしらのなにか」と呼んでいる「障害」についての話です。
「なにかしらのなにか」については、こちらの記事をご覧ください↓
今回は、「障害」は病気じゃない、というお話です。
受診しやすくなった「発達障害」
最近「発達障害」が注目されるようになったのは、ご存知でしょうか。
学習障害、自閉症、多動性障害、などのタイプに分けられる障害です。
HSPと並んで、「発達障害」が知られるようになったことで、前よりも気軽に精神科を受診される方が増えたようです。
「発達障害」ということがわかれば、補助を受けることができたり、同じ「障害」を持つ人の対処が参考になることもあります。
しかし、一つ、忘れられがちなことがあります。
「発達障害」は治らない、ということです。
最終目的は「完治」ではなく「適応」
漫画でも現実でも、たまにこんなやりとりを見かけます。
医者「お子さんは発達障害です。処方箋はこちらに……」
母親「先生! 子供は治るんですか!? どれくらいで治るんでしょうか!?」
「発達障害」は、「治す」ものではありません。
「適応」するものです。
なぜなら、「発達障害」とは、病気ではなく性質だからです。
「障害」は性質、その人の大切な一部分
人より苦手なことがある、できないことがある、そう聞くと、「治したい」、あるいは「治してあげたい」という気持ちになるかもしれません。
だけど、ちょっと待ってください。
その「障害」は、その人の大切な一部だ、ということを、忘れていませんか。
「障害」は、後からくっついてきた、悪い寄生虫やウイルスではありません。
生まれた時から、その人にそなわっているものです(もしくは、これから先、その人の一部となっていくものです)。
目の色や肌の色と同じです。
色素の薄い、青や緑の瞳の人は、サングラスをつけて太陽に適応します。
日焼けで赤くなる皮膚の人は、日傘をさします。
でも、「目の色を変える薬」や「肌の色を変える薬」を使うことは、ほぼないでしょう。
むしろ、「目の色が他の人と違うからかわいそう」とか、「肌の色が他の人と違うからかわいそう」なんて言ったら、当然相手を傷つけます。
「障害」にも、似たようなところがある、と私は考えています。
ややこしい、面倒な自分を変えたくなかった理由
私も、かつては自分のグレーゾーン(名前のつかない、曖昧な状態の障害)の自分を「治そう」としたことがありました。
周りの視線を気にしてしまう、怒鳴り声が怖い、すぐに泣いてしまう、などの「症状」を消そうとしました。
考え方を変える、「認知の歪みの解消」というのを行う、カウンセリングを利用しようとしたんです。
だけどいざ「治そう」とすると、途端に悲しくなったのです。
確かに、ものの捉え方を変えることで、過敏性はなくなるかもしれません。
人の怒鳴り声で簡単に泣くことも、ないでしょう。
だけど、同時に他人の心に鈍感になってしまうのではないか。
今感じている、繊細で暖かい世界までも、つまらないものになってしまうんじゃないか。
そんな自分は、今の自分とは別人なのではないか……。
もし、今の自分より、変わった後の別人の方が社会に求められているとしたら。
今の自分を否定されていることに、他なりません。
これは、「障害」かもしれないけれど、同時に私自身の性質でもあるのです。
大切な一部分なのです。
否定されるのは、悲しいことです。
「障害」、それは誰かを救うこともある、素敵な「Something What(なにかしらのなにか)」
「障る」「害する」なんて、日本語では書きますが、「障害」と言われるものは、傷つけたり困らせたりするような側面ばかりではありません。
もちろん、大変な部分が圧倒的に目立ってしまうこともあるかもしれませんし、実際苦労も少なくないでしょう。
だけど、救われることがあることも、忘れないで欲しいのです。
私は学生時代、生きづらさから人間不信になりかけた時期がありました。
心の支えになってくれたのは、重度の「障害」を持つクラスメイトでした。
優しさと純真さと無邪気さが、頭でっかちで考え込みがちな私を、明るいところに連れ出してくれました。
自閉症を持つ作家、東田直樹さんの『僕が飛び跳ねる理由』は、同じ自閉症の方だけでなく、多くの人に安らぎと暖かさを与えてくれます。
誰かに優しくしたくなる、柔らかい気持ちを教えてくれるのです。
「障害」、というか、それはそれで、一つの性質。
善悪も優劣もない、ただそこにあるだけの、「Something What(なにかしらのなにか)」なのだと思うのです。
とはいっても、大変なことも多いですよね
とはいっても、本人や周りにとって、「障る」こともあるし、「害」になることも、少なからずあります。
私自身、自分の過敏さで落ち込んだり、向精神薬が必要になったりすることもあります。
仕事ができない期間が、月に1回長期間存在するのも、困ったものです。
叱られると漏れなく泣いてしまうので、会社員勤めは難しい、という点も、大変です。
他にも、自分のグレーゾーンに合わせた、たくさんのルールがあったりもします。
逆に、周りの「なにかしらのなにか」の余波が、自分に降りかかったことだって、少なくありません。
廊下で、(特に意味もなく)すれ違いざまに、腹パンを食らわされてしまったり。
(素で「オフッ」って声が出ました笑)
振り回されて、ヘトヘトになってしまったり。
(手を離した途端、走り出してしまう子が同じ班にいたんです)
しつこいなぁ、と困ってしまったり。
(同じことの繰り返しが好き、という性質の方は少なくありません)
だけど、怒りは湧いてきません。
今は「障害」について知る方法が、たくさんあるからです。
自分のこと、他人のこと、どちらについても、知っていくうちに、なんとなく対処法がわかってきます。
怒りを感じたり、辛くなったりするのは、どうしたらいいかわからない、という困惑の気持ちが少なからず働いているのだと思います。
試しに知ってみると、「なーんだ」と、納得できるようなことも、たくさんあります。
どうしようもないことも、自分の中でうまく折り合いがつけられるようになっちくんです。
まとめ:
「消す」「治す」ではなく、「適応」していけたら、幸せ
「障害」は病気ではありません。
その人自身の、大切な一部でもあります。
もちろん、本人にとっても、周りにとっても、大変なことはたくさんあります。
だけど、無理に消そうとしないでほしい、と私は願います。
もし、適応できそうにない、と感じたら、距離を取ってみましょう。
自分の性質が気になるのなら、気にならない場所に逃げてしまいましょう。
(他人がいないところとか、同じ人同志のコミュニティなど)
他人の性質が気になるのなら、その人から離れてください。
(物理的な距離です)
居心地がよくなったのなら、あなたが「適応」できている証拠です。
その場所に止まるのも、素敵な選択ですし。
その場所から再スタートしてみるのも、いいですね。
少しずつ、自分の、あるいは誰かの性質に、より広く適応できるように。
みなさんの持っている、「なにかしらのなにか」の一面は、どんなところですか?
エイでした。
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