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「武吉さんと私とはどうしても結ばれることはならないのですか?」
「父が私たちのことを認めない。父が首を縦に振らない限りはどうしても無理だ」
「それは身分が違い過ぎるからでしょうか?」
 武吉は黙した。それが答えである。
 フクも次の言葉を飲みこんで下を向いた。
 女性から男性に結婚をねだるなんてありえない。ここまで我がままを放っても自分を窘めない武吉の人間性にあらためてフクは尊敬の念を覚えた。
 身分の違いを表すようにフクはおとなしい柄の着物姿であった。
 彼女は小柄で姿勢が良く着物姿がとても似合って美しいのに、洋服を我先にまとい始めた良家の子女らからは露骨に蔑みの視線を当てられた。
 武吉も最近は母親から用意された金のラメの入った洋服をまとい始めた。
 今夜もそうである。
 フクはいろいろ思いを巡らせたあと、武吉の正面に回ってゆっくりと頭を垂れた。
「武吉さん。本当に本当に有難うございました。武吉さんから受けた御恩は一生忘れることはございません。どうか武吉さんもいつまでもご無事であられますよう。そしてますますご出世なさってくださいませ」
 フクは最後にもう一度深く頭を下げて武吉を見送る。
 大きな大きな満月様は武吉の姿を明るく照らすがいつまでも照らしてはくれない。
 フクはそれでもかまわない。
 他人様に気付かれぬようにできるだけ小さくすすり泣きながら家路を急いだ。

 誰もいない橋に着いてフクは満月様にさらすようにして涙を乾かす。
 満月様が柳の並み木にちょうどいい塩梅にかかって浮かんでいる。
 涙を少し手で拭いた時、着物の裾にかすれるように細いほつれた糸が見えた。
 淡い桃色に光る糸が月明かりだけでささやかに光りながら夜風に泳いでいる。
 それは今しがた別れた武吉さんと自分を繋いでいた糸に見えた。
 こんなに細く細く繋がってくれていたのね。
 自分などにはとても不釣り合いのあのお方をこれだけの細い糸が一生懸命繋いでくださっていたのね。
 ありがとう。
 フクはお役目を終えたその糸をすぅと抜いて、満月様に添えるようにして浮かばせた。
 その糸は夜空に本当に浮かんだ。
 満月様に引かれるようにふわりと浮かんだ。
 どこかの民家のラジオから流れる洋楽に合わせて舞い、最後満月様の大きさに負けないくらい大きくすぅと輪を描いた後夜空に消えた。

「あれ、首筋になにかついてるよ」
 リナから言われてマサトはおいおい早く取ってくれと騒ぐ。
 この夏、背中に毛虫が落ちてから「なにかついてる系」に過敏になっているのだ。
 続いて、近眼のジュンコが顔をぐっと近づけるのに全身が緊張する。
「わあ、綺麗な糸くずだよ。これ何色って言ったらいいんだろ」
 化学繊維を見慣れた二人にはその糸くずのしっとりした可憐な色がそれを身に付けていた女性の人となりをも思い起こさせた。
「これまさに桃色だね。サーモンピンクとかショッキングピンクとか言わなくて」
 さっき顔を近づられたのがマサトにはいいきっかけになった。
「え、こんなにぎゅっと腕組み?まあ今夜は許すわね。満月の夜だから」
 リナは糸くずを口元に添えふっと吹いて月夜に浮かばせた。
 大きな大きな満月様。
 二人の姿を明るく照らすがいつまでも照らしてはくれない。
 二人はそれでもかまわない。