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ヒサシブリちゃん

 私はOLだ。
 求職中だが南大阪出身なのでオオサカレイディでOLだ。
 そんなくだらないことを言っている暇があったら夕飯の後片づけくらいしたらどうだと言われそうだがしようとは思っている。しようとは思っているのだが、ただ今キッチンに入れない。

 キッチンに「アイツ」がいるのだ。

 思い出しても気が遠のきそうなのでひとまず頭の中を初期化した。初期化してもなんの変化もないので最初から空っぽだということが判った。
 ちなみに私はつい今しがたキッチンで天井に頭ぶつけるほどジャンプしそのまま玄関を突っ切って飛び出し、今廊下にいる。
 上下違うジャージと左右違うツッカケ、そして化粧を顔の上半分だけ落とした全体的にツートーン仕上げが死ぬほど恥ずかしい。
 こんな時に限って隣のご主人が帰ってきた。こんばんは。
 え、どうされたんですか?って?
 いえいえ、この通り私は正気です。大丈夫です。ちょっと夜風に当たろうかなと思って。
 はい。ではまた。よろしく御機嫌よう、さようなら。グッバイ。
 ふうっ。。あの人話好きだから、話盛り上がらなくてよかった。ひっ掛ったら一時間くらい話すものね。奥さんが相手してくれないのかな。可哀そうに。

 ああ、そうそうダーリンに電話しなくちゃ。
 一発で出てくれ~。一発で出てくれ~。本気で祈りを捧げたら一発で出てきた。まるで福引きの赤玉のようなダーリンである。
「なんだよ。トシ子こんな夜に」
「こんなもあんなもないわよ。キッチンにまたアイツが出てきたのよ!」
「キッチンにアイツってゴキブリでも出たのか」
 私はツートーン姿で廊下にいることも忘れて金切り声を上げた。
「だからぁ、言わないでよ!言葉を聞いただけで卒倒しそう!」
「面倒くさいなあ。じゃあ、なんて呼んだらいいんだ。ゴキブリンちゃんか」
「ああ、やめてやめて~。もっと肌触りのいい言葉にしてよ~。前回から半年ぶりに見たから暫定ヒサシブリちゃんにするわ」
「なんでブリだけ残すんだよ。ゴキだけか気に入らんのは。解らん。。」
「そんな細かいこといいから、早く来て退治してよ~ん!」
「なんでこんな夜中に最終電車とバスを乗り継いでゴキ、いやヒサシブリをやっつけにいかなあかんのだ。おかしいだろ」
「最終電車でやってくるだけの価値があるかもよ!」
「それはあなただけでしょ!こっちから遠隔で指示を出すからその通りに始末しろ!」
「そ、そんなことできると思ってるの!あなた、自分が何を言っているのか解ってるの?後で後悔しても取り返しつかないわよ!」
「そのセリフもっと大事な時にとっておけ。訊かなくても大体の想像はつくが今どこにいるんだ」
「ろ・う・か❤」そのまま言うのもカッコ悪いので少し可愛くアレンジした。
「わかった。まず部屋に入れ」
「ヒサシブリちゃんが私めがけて飛んできたらどうするのよ!」
「飛んでこない確率の方が高いから部屋に入れ!」
「飛んでこないって確証はあるの?あなた本当に責任をとれるの?」
「だからそのセリフもっと大事な時にとっておけって。ふう。。」
 あ、私のダーリンが仕事で疲れて帰って、やっと部屋で寛いだところなのに、ため息ついてる。かわいそう。。
 私は人がかわいそうな状態になるとやたら燃焼する。それを自分では正義心と呼んでいる。他の人がどう呼んでいるのかは知らないが。
「わ・た・し、や・る・わ」
「よし、トシ子頑張れ!」
 私はドアノブに手を掛けた。

 部屋の中はさっきとなんら変わらない。当たり前だ。ヒサシブリちゃんが部屋の片づけをするわけがない。
 ああ、あれから随分時間が経っているからもう部屋の影から影へと伝ってタンスの裏とかに身を潜めているのだろうなあ。人が寝たらまたごそごそ活動し始めるのだ。
 もう憂鬱で憂鬱で明日早速引っ越しすることまで選択肢に入れた。
 抜き足差し足忍び足。。なんで私がこんな格好せなあかんねん!この部屋、家賃払ってんの私よ!
 激しい怒りが湧いてきた。
 私は怒りが湧いてくるとやたら仕事のパフォーマンスが上がる。それを自分では真面目と呼んでいる。他の人がどう呼んでいるのかは知らないが。

 思いきりどたどたと踏み込んでいった。私が家賃払ってんだ、私が家賃払ってんだ、と何かに憑かれたかのように遠い目をしてキッチンまで踏み込んでいった。
「トシ子いまどこだ!」
「ようやくキッチンが見えたわ!」
「どんだけセレブな豪邸なんだよ!」
「ダーリン!そんな冷たいこと言わないでよ!勇気を奮って二歩進んで三歩下がってるんだからあ」
「後退してどうするんだぁぁぁ!」
 泣きたい気分だった。新しい選択肢に、隣のご主人に退治してもらう、が生まれた。
 人は究極の状態になると本当にいい考えが浮かぶものだ。
「ワタシ、隣のご主人呼ぶわ!」
「それ、彼氏に報告することか!」
 ところで、こんなに煌々と明かりをつけていて姿を現すのか?
「ダーリン!はい、質問!電気は消した方がいいですか?」
「消した方が活動開始して見つけやすいが、トシ子の目はそんなピューマ見たいな目をしているのか?」
「あ、そっか見えへんな。あはあは」
 と、その時、私の視界に何かガサガサと動くものが映った。ような気がした。
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああ!」
「どうした!ゴキ、いやケズリブシが出てきたんか」
「違う、ヒサシブリちゃん。あ、でもまだ見てない」
「なら叫ぶな!こっちは見えてないんや!紛らわしい。。」
「だって影が見えたような気がしたもん。。」
「ちょっとビデオコールに切り替えよう。オレが状況を見よう」

 ビデオコールに切り替えて、カメラで散らかっているキッチン全貌を写した。
「片付けろよ!」
「ダーリン!それが今独り難局にあるハニーに掛ける言葉?いい加減にしてよ!私たちの愛はなんだったの?お互いあれほど求め合い与え合い貪り合った時間はなんだったの?ねえ!嘘と言ってよ!」
「だから、そのセリフもっと大事な時にとっておけって!」
「も~。なんで人類とヒサシブリちゃんが約一万年前から地球に共生してるのよ~」
「そんな専門的なこと質問しながら泣くなよ~」
 そして今度こそ、心置きなく、
ぎゃああああああああああああああああああああああああああああ!!!!出たああああああああああ!
 日頃カラオケでマイクを通しても自信のなさで声が小さいのにベテラン演歌歌手のこぶしよりドスの効いた絶叫が腹底から噴き出した。
「トシ子今どこにいる。カメラがブレた」
「ろ・う・か❤」
「振り出しに戻ってどうする!わしは眠い!とても付き合いきれん!」
 私だって眠いんだよぅ。毎日毎日求職活動でクタクタで。
 だが、私は眠くなるとやたら活動的になる。それを自分では粘り強さと呼んでいる。他の人は多分夢遊病と呼んでいるのだろうが。
 とにかくこれを始末せねば、私は隣のご主人に一晩添い寝してもらわねばならないのである。
 隣のご主人が突然オトコになって何をしでかすやらわからない。ああ、ふしだら!イヤイヤ!
 私は再び勇気を振り絞りやっとのことで部屋に入った。
「ダーリン!起きてる?」
「ああ、むしろ眠れん」
「ワタシどうしたらいい?」
「もう一度キッチンへゴー」
「無責任な政策みたいな言い方やめてよ!」
 しかし眠いからかも知れないがいやむしろ眠いからだろうがさっきに比べたら我ながらなかなかの踏み込みぶりであった。
 子どもっぽい表現で恐縮だがピンクレンジャーに変身したような感じであった。
 そして、アイツがそこにいて真正面からピンクレンジャーを見据えていた。
 声も出なかった。おそらくピンクレンジャーは立ったまま気絶していた。
 はっと我に返った。まだアイツは同じ格好をしてじっとしていた。
 もう一回立ったまま気絶した。
「見つかったか?いたならカメラをゴキ、いやヒサシブリに向けてくれ」
「あいよ!」
「ミドル級だな。何か黒いものはないか靴下とか、、紙でもいい。ヒサシブリは黒いものに寄っていく習性がある。いったんそこに寄せてから殺虫剤で始末するんだ。殺虫剤をばら撒きながら追い掛ける必要がない」
「なんでそんな大事なことをこないだのデートの時に話してくれなかったのよ!」
「そんなデートがあるかぁ!」
「ああ、ワタシ黒い靴下なんか持ってないわよお。黒のパンティならあるけど」
「オレ知らんぞ!」
「あなたの時は情熱的なイタリアンレッドを選ぶの」
「あなたの「時は」てどういう意味だ!」
「ちょっと言い方間違えただけじゃない!あなたの前で披露する時は、っていう意味で言ったんじゃない!ぎゃあああああああああああああああああああああああああ!!!!」
 パンチの効いた申し分のないこぶし。
「どうしたトシ子!」
 私の方にヒサシブリちゃんがスルスル走ってきたから、動転してスマホが手から離れてコロコロ転がりヒサシブリを下敷きにした。カメラレンズがヒサシブリを大写しにして。
「ぐわあああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
 ダーリンの断末魔の叫びがスマホから聞こえる。私に劣らずなかなかいいこぶしの回しっぷりである。
「ダーリン!汚くてスマホ使えないよ~」
「そんなことは後だあ。その前にゴキ、いやヒサシブリをなんとかしてくれ!大写し!大写し!」
 ついに私はこの悪夢から解放されるのだ。怒りの鉄拳の時のブルース・リーみたいな顔をしてスマホごとスリッパで踏みつぶした。

 ジ・エンド。

 実質的にはヒサシブリちゃんとダーリンを抱き合わせで踏み潰したことになる。

「これがそうか。。」
「はい、これがそうです。。」
 とにかく二人とも寝不足で事件現場の刑事のやり取りのように落ち着いた口調であった。
 翌朝、直ちに来てくれなかったら今度こそ100%別れると脅迫し、ダーリンは始発の電車とバスを乗り継いで我が家に来てくれた。
「ウェルカ~ム!ダーリン!」
「しかし、昨夜の状態そのままに置いておくというのもシュールだなあ」
「白線を入れてもいいよ。現場検証ごっこ」
「うまく言ってるつもりか知らんが、要はオレに始末しろということだろ」
「頼むよ~ん。昨日私頑張ったんだからあ。あなた苦労知らずのお坊ちゃまだから立ったまま気絶したことなんてないでしょ!」
 優しいダーリンは処理してくれて、床もきれいにクリーナーで磨いてくれた。
「スマホ極めて気持ち悪い。ダーリンのと交換してよ~!」
「何をわけ解らんこと言ってんの。アルコールで何度も拭いたから大丈夫だよ」
「じゃあ、そのスマホにキスして!私だと思って」
「わ、わかったよ。ちゅ」
「もう一回、その横も」
「ちゅ」
「左の頬も」
「ちゅ」
「右の頬も」
「ちゅ」
「ああ、でも、やっぱりムリ!」
「ゴルァアアアアアアアアアアアアアアアアアア!約束守れよおおおおお!」
「冗談よ!冗談よ!」

 ヒサシブリちゃんは始末した。床周りもきれいになった。
 スマホはもう二、三回ダーリンにキスしてもらってよしとしよう。
 機嫌よくニコニコしているとダーリンが言った。
「ああよかった!トシ子すっかりゴキゲンになったなあ!」
 ぎゃあああああああああああああああ!それ言わないでえええええええええええええええ!!!

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眠れない夜に