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あい色の手紙

青空にひとすじの飛行機雲を
見上げた昼休み あい色の見慣れた文字 
あの娘の手紙読み終えた

父にぶたれて 母に泣かれて 
それでも私あなたと暮らしたい

塀の向こう 壁にボールを弾ませ 
遊ぶ子供らの笑い声

人はどこで 人はいつから 
つぐなえぬほどの罪を背負うのか

父にぶたれて 母に泣かれて 
それでも私あなたと暮らしたい

いいさ君の好きなように 
僕も君がほしい
ひび割れた夢のかけら 
捨てて人の心知った

つかのまの若き日々よ 
いまこそ僕にやさしい季節を

      「あい色の手紙」~浜田省吾より

自分という人間を知れば知るほど、
罪深き人間であると気づいたわけである。

両親や祖父母、ご先祖の愛に気づき、
感謝が深まるほど、自らの愚かさに
気づいたわけである。

両親の愛情を当然と思い、
感謝のかけらもなかった。
その頃のほうが、自らを善人と思い、
生きていたわけである。

自分を知らないとは、
実に恐ろしいことである。

ただ、良かれと思い、
行ったことが、大事な誰かを
傷つけてしまう。

そういう場面に出くわすたびに、
また過ちを犯すのではないのかという
不安に駆られ、生きること自体が、
恐くなったこともあったわけである。

「そもそも生きるということは、
罪を重ね続けることである」

罪深い自分を、
目の当たりにするたびに、
「それでもなお、生きなければ
ならないのか」という根源的な問いが、
湧いてきたわけである。

今あらためて感じるのは、
自分がしてきたことは、
「罪ではなかった」ということである。

自分は、「罪に思えること」をしてきた
ということだったわけである。

だから何より「自分自身を赦すこと」が、
大事だということである。

そして、自分自身を赦せるかどうかの鍵は、
自らが犯した罪が、その後の人生に
どのような影響を与えてきたかに
かかっているわけである。

罪だと感じていたことが、
後の人生を好転させていたとするならば、
それは罪ではなかったこととなる。

それゆえ、自らが、有罪か無罪かの
裁定を下すには、それ相当の時間が、
必要となるわけである。

だから、自分は生きる価値がない。
たとえそう思ったとしてもまずは、
生きるのである。

生きる命が、与えられているということは、
自らの魂が、自らのえん罪を信じている。
そのことを意味するからである。

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