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良き習慣の奴隷

心は動く。コロコロと動く。

上がったり、下がったり、
右にいったり、左にいったり。
縦横無尽、とどまることを
知らないわけである。

だから、このとらえどころの
ない心を堅牢な牢獄に
閉じ込めるわけである。

できれば、心の動きの
範囲をポジティブな範囲に
限定したいわけである。

だから、「良き習慣」という
堅牢な牢獄に心を閉じ込めるの
である。

良き言葉、良き行動、良き考え方、
良き習慣というものに、不安定な心を閉じ込め、人生を想定内の良き範囲に
限定したいわけである。

自らの心を良い意味で、
習慣の奴隷としたいわけである。

しかし、良かれと思い、心を、
健全な監獄に閉じ込めたとしても、
心は、自由をあきらめないのである。

暴れに暴れ、やがては、
堅牢な牢獄をぶち壊すのである。

野に放たれた心は、自由を覚え、
もといた健全な監獄に戻る気も
失せてしまうのである。

と同時に、良き習慣という
健全な牢獄にいたことで得られた安心感も、失ってしまうわけである。

黙っていたら、自らの心が、
糸の切れた凧のようにコントロール
不能になってしまうのである。

ここに至り、良き習慣という
牢獄なしで、心が暴れないように
する。何か特効薬のようなモノが
必要だと気づくわけである。

その特効薬が、両親やご先祖からの
無償の愛を思い出すことなのである。

家族から与えられた無償の愛という
衣で、自らの心を優しく包んであげたら、良いのである。

また、家族愛の根源にある、
神仏の愛という衣で、自らの心を包んであげたら、それで良いのである。

心の不安は瞬く間に小さくなり、
穏やかさを取り戻すわけである。

心が、優しさに包まれているから、
せわしく、動き回る必要がないので
ある。

心さえ、落ち着いているならば、
良き習慣という看守は、
不要なわけである。

愛を知れば、心は解放され、
本当の意味で、自由になるのである。

自由な心になって初めて、
良き習慣と対等な関係を
築くことができるのである。

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