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既成の学問にないから

既成の学問に学びたいものが
なかったのである。

だから、ずっと悩んできたわけで
ある。

そして嫌々勉強していたわけである。

だから、既成の学問の中に、
夢中になれるものを見いだした者を
とても羨ましく思えたわけである。

しかし、学校の勉強が大嫌いだったのに、こともあろうに、教師となって
しまったのである。

当然、教師になる前は、試行錯誤を
繰り返したわけである。

当たり前である。

自分が、どの教科を教えたいのか、
これが、わからなかったからである。

結果、英語が苦手な英語教師に
なったわけである。

だから、運動が苦手な人が、
体育教師になったくらい恥ずかしい
思いをしたわけである。

気づけば、さだまさし氏の
コンサートのような授業に
なったわけである。

英語の発音よりも、語りがほとんどの授業となったのである。

自らが感じた日常のたわいもない
話しを面白おかしく、漫談風に
語っていたわけである。

それが良かったか、悪かったのか。
それはわからない。

でも、それが今、仕事になっている
わけである。

結局、自分は、英語ではなく、
生き方とか、人生哲学とか、
どうやったら人は幸せに
なるのか?とか。

そういうことを、学び、生徒に
伝えたくて、教師という仕事を
選択したわけである。

だから、部活動とか、生徒指導とか、学校行事に人一倍、のめり込んだ
わけである。

つまり、既成の学問にないことを
学び、教えたかったのである。

しかし、英語教師を選択した
ことに悔いはないのである。

なぜならば、苦手な英語を
克服したい。このままじゃダメだ。

その強烈な思いから、青年海外協力隊を志し、職を辞し、アフリカで
野球指導をすることができたからで
ある。

そして今、自分が、本当にやりた
かったことが、仕事になっている
からである。

人生は、つじつまが
あうようになっているのである。

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