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宮沢賢治『やまなし』感想文

僕は小学校高学年の時に授業でこの作品を習いました。今回読み返して、絶妙な時期にこの作品を習っていたのだと思いました。幼年期の子どもたちは、「現実」と「非現実」の区別がつきにくいと思います。しかし、「現実」の割合が多くなり「非現実」の領域が少なくなっていくのが、小学校高学年の年頃のこどもたちだと思います。『やまなし』は、「現実」と「非現実」が交差しますが、「非現実」の割合が大きい作品だと思います。「非現実」が少なくなり、「現実」が多くなる年齢の子どもたちが『やまなし』を読むのは、“絶妙”だと思います。

冒頭で二匹の子どもの蟹たちが「クラムボンが……」と言って遊んでいるくだりは、社会で小さい子どもが遊んでいるのを“観ている”方には、なんとなく伝わる表現だと思います。「一、五月」で、魚とかわせみを「現実」の象徴として表現しています。一方「ニ、一二月」では、やまなしを「非現実」の象徴として、さらには理想として表現しています。大切なのは、やまなしが「現実」で熟して(生活して)、「非現実」(=理想)に降ってきた(表現された)ことです。「やまなし」は、創作する人の“作品”の比喩として捉えることもできると思います。

「黄金(きん)」が『やまなし』の装置だと思います。「現実」と「非現実」の交差がおきている「舞台」のはるか先で、「黄金(きん)」が、“恒久的なもの”として描かれています。おそらく著者は、「舞台」が変わっても“恒久的なもの”は永遠に存在し続けていることを表現しているのだと思います。


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