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志貴皇子考~「いわくつき」な無縁の文化人?~【聖地巡礼小話 14】

吉野の宿にて。夢の中の「ご案内いたしましょうか?」という女性の声と目の前に現れた「春日宮」という文字。

「春日宮」を調べると、「志貴皇子」が出てきた。志貴皇子さんとは、一体どんな存在なのか?

まず、簡単に「壬申の乱」をおさらい

一応、念のため、簡単に壬申の乱をおさらい。
天智天皇(兄)の息子である大友皇子天武天皇(弟)の皇位継承権を巡る戦い。天智天皇(=中大兄皇子:なかのおおえのおうじ)の崩御後、天武天皇(=大海人皇子:おおあまのみこ)は、大友皇子から政権を奪取した。

壬申の乱後、天武🖤持統夫婦は、皇位継承権のある天智・天武両諸皇子を集め、皇位継承権をめぐる争いはしないと約束させた(吉野の盟約)。集まったのは、志貴皇子はもちろん、草壁皇子(天武×持統の息子)・大津皇子(天武×大田皇女の息子)など。

ちなみに、今回注目する志貴皇子さん、そして大友皇子・持統女帝は、父が天智、母違いの兄弟。天武はお嫁さんをたくさんもらったために、死後、吉野の盟約虚しく、激しい皇位継承争いが起こる。

天武崩御後、草壁・大津とも亡くなり、持統女帝が爆誕するという流れ…。ムムム。この天武・持統夫婦。本当に仲が良かったかはかなり怪しい。藤原不比等の編纂した日本書紀では、仲の良さが妙に強調されているらしいが、それが逆に怪しす。

全然関係ない小ネタだが、芸能人・神田うの氏。の、「うの」は、持統女帝即位前の名である「鸕野讃良(うののさらら)皇女」から名付けたそうだ。

志貴皇子とは

志貴皇子さんは、天智と越道君伊羅都売(こしのみちのきみのいらつめ)の間に生まれた天智系の皇子・第7子である。「越」の文字から、母は北陸出身の可能性が高い。壬申の乱では、天智サイドに着いた模様。

「生きている間に叙位(じょい:官僚の位)を授かった記録のない皇子さん」という話もあるが、これによるとそんなこともないようで、持統の葬儀には、火葬のための設営を行う役職も命じられていたりする。

皇位継承・政界の表舞台にほとんど出てこない志貴皇子さんであるが、歌(和歌)の才は卓越したものがあったようで、万葉集には志貴皇子さんの歌が6首も選ばれており有名。文化人。

そして、志貴皇子さんの正規(?)の息子・白壁王。のちの光仁天皇にあたるが、白壁王は、すでに崩御していた父・志貴皇子を「春日宮御宇天皇(かすがのみや/ぎょう/てんのう)」として追尊している。

息子・白壁王から見て、父・志貴皇子は不当な扱い受けて亡くなったのか?父の尊厳を回復したかったのだろうか?そう思わざるを得ない。不可思議な点あり。

春日宮神社と陵(みささぎ)の参拝

奈良(北部)・矢田原にある、志貴皇子さんが祀られている春日宮神社とその陵墓と言われる田原西陵。私は、2021年にどちらも伺って歌を奉納してきた。

2020年明日香巡礼と同様、なかなかの雨に見舞われたが、歌い終わった後、雲間から青空が♪気持ちが伝わった感覚は得られた。

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春日宮神社
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田原西陵


しかし、それ以上のものは感じず…。吉野で見た夢の中での「ご案内いたしましょうか?」の真意は?まさかここで終わりではないだろう。きっと何かあるはずなのだ。

もう1つの神社・奈良豆比古神社

春日宮神社・田原西陵のほかに、志貴皇子さんは奈良豆比古(ならつひこ)神社に祀られている。その社伝には「奈良豆比古神社は、志貴皇子が病気療養のために隠居した場所であった」と。志貴皇子さんは、なんと病気を患っていたらしい。また、この辺りは、当時、「奈良山春日離宮(現;奈良阪)」と呼ばれていたらしい。

この神社には主に3つの社殿があり、

【社伝】
中殿には、産土神として平城津比古(ならつひこ)大神、左殿に春日宮天皇(=施基親王=志貴皇子=田原天皇)、右殿に春日王(志貴皇子の子)を祀る。

奈良豆比古(=平城津比古)とは志貴皇子(=施基皇子)のことであるとされていると。

また、延喜式神名帳内の記述なのかわからんが、「式内社考」と呼ばれるものにはこう書かれているようだ。

【式内社考】
中殿が南良春日宮大神(奈良豆比古神)、左殿が春日若宮(天押雲根命)、右殿がう矢幡大神(施基親王)としている。

社伝の通りであれば、中殿に祀られている奈良豆比古神とは、神格化された志貴皇子であると言えるだろう。左・右殿に祀られている存在は、【社伝】【式内社考】で異なる。

社伝と式内社考・比較

⑴春日宮天皇は、志貴皇子さんの天皇名である。⑶春日王は、伝説的人物と見なされている志貴皇子の子だ(白壁王とは別)。

【式内社考】の⑵⑷が気になる。調べてみる価値があると思った。
⑵天押雲根さんは、なんと!ここ最近調べている中臣(藤原)氏の祖神・天児屋根命の息子に当たる存在のようなのだ。

というか、「春日」という名が多く見られる時点で、中臣(藤原)氏と関係ないわけがないだろうと読んでいたが…。

そして、⑷矢幡大神の「矢幡」は、おそらく=八幡。称徳女帝と道鏡と白壁王即位。そして、施基親王(=志貴皇子)…。宇佐八幡神託事件が頭に浮かぶ。

称徳女帝の寵愛を受けた道鏡は、《志貴皇子の落胤(らくいん)である》という説がある。

下に紹介するブログにも、「『僧綱補任』『(本朝皇胤)紹運禄』には、「道鏡は、志貴皇子の子である」と記されている」と書かれていた。

ブログ「謎学の旅」《翁の謎1~19》の紹介

非常に読み応えのあったブログを、ここに紹介しておきたい。興味ある方は、ぜひ1〜19まで全て読んでいただきたいところ♪

① 奈良豆比古神社の伝統芸能「翁舞」や和歌の考察。
② 偶然出逢った地元の人からうかがった伝承や話。
③ 古、神と怨霊は同義であったこと。
④当時、奈良阪エリアはハンセン病患者の療養所があり、「非人」が多く住んでいた場所であったこと。
⑤非人とは、どんな存在だったのか?
⑥志貴皇子と春日王の子・浄人王と僧・道鏡の繋がりに対する考察。
⑦「藤原不比等は、天智と天智の后・鏡王女の子である」と興福寺縁起に記されいていること。
⑧謀反の罪で殺された人は、塩が振られていたこと。

などなど、本当に興味深かった。

このブロガーさんは、さまざまな点から考察した後、

「志貴皇子・春日王・開成皇子は、謀反の罪で殺され塩を振られていた。この状たい態がハンセン病患者の皮膚の状態に似ているということで、彼らがハンセン病を患ったという伝説が制作されたと私は思う」
翁の謎⑲ 東大寺 三月堂 『志貴皇子・春日王・開成皇子はなぜハンセン病の神とされたのか。』(最終回) 

と、まとめている。

特に、⑤非人とは、どんな存在だったのか?に関しては、芸事に携わっている人間、歌を奉納している身として個人的に非常に共感する部分があったし、⑥志貴皇子と春日王の子・浄人王と僧・道鏡の繋がりに対する考察は、好きな僧侶の1人である道鏡さんと志貴皇子さんが繋がりあることに興奮。

⑧謀反の罪で殺された人は、塩が振られたという話に関しては、ここ最近読んでいた「藤原氏の正体(著;関裕二)」に

豊璋は、鬼室福信の首を「醢(すし)」にしている。「醢」とは、塩漬けのことで、罪人を晒し者にするために防腐処置をするわけである。大陸の風習であり、当時(乙巳の変頃)の日本にはなかった。
藤原氏の正体(著:関裕二)

とあって、これは、曽我倉山田石川麻呂(そがの/くらやまだ/いしかわまろ)が謀反の嫌疑をかけられ殺された際、その娘である遠智娘が「塩」を忌み嫌い、発狂。なぜ越智娘は塩を忌み嫌ったのか?という、その理由の推論一部に当たる。

この部分を偶然か必然か目にしていたので、⑧はスッと入ってきた。

このブロガーさんの考察・結論をありがたく携えて、次は奈良豆比古神社参拝、そして奈良阪・元ハンセン病療養所に碑があれば祈りを捧げに行きたい。残念ながら、今年は翁舞(毎年10月8日開催)を観ることはできないけれども。




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