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インドに着任したらどうするか 『着任の手引き(生活編-②)』

(今回の投稿は、「着任の手引き」生活編①の続きですが、こちらの記事だけでもお楽しみいただけます。)

インドの「医食住」について


インド生活における衣食住は、「医食住」と表現したほうが、その重要な項目を順番通り表している。まずは直接命に関わる医療体制や健康が最も重要だ。子供がいる家庭や年配の駐在員はこの課題にどのように対応していくかが駐在生活とその後の人生を大きく左右する。駐在を経て病気になってしまっては元も子もない。次に、インドの食はストレスの大きな原因である。インドの食べ物と日本人の体や習慣はマッチしていないばかりか、日本食やそれに必要な素材へのアクセスも困難である。最後に住居の悩みである。駐在という立場上必ず賃貸に住むことになるが、インドの住居は決して静かな憩いの場ではなく、常に何かしらの問題を引き起こす悩みの種である。以下では「医食住」の「医」から順番に、インド駐在生活を生き抜くためのポイントを説明する。
 


・頼りにならない医療体制


インド駐在の過酷さの中で最も深刻な問題は、健康と医療に関するものだ。まず頭においておくべきは、一刻一秒をあらそうような病気を発症したらまず助からない。その理由は渋滞、医療技術、治療優先度にある。デリー、ムンバイ、バンガロールなどの駐在員の多くが暮らすこれらの街は異なった街並みと気候を擁するが、ひどい渋滞がある点が共通する。特に通勤・退勤時間になると幹線道路が身動きとれないほど混む。緊急車両のために道を開けようにも少しの隙間もできないほどの混み具合だ。幸運でない限り、体調が悪くなって救急車を呼んでから病院に着くまで非常に長い時間がかかる。医療技術の問題もある。インドにも最先端の設備と最高の医師が存在する。問題は、自分がこれらのリソースにアクセスできるかどうかである。急病の際に自分が最先端病院に搬送される保証などなく、渋滞なども考慮すると最寄りの病院で緊急処置を受ける可能性が高い。その場合、医療や看護のレベルはインドの平均的なそれになる。治療の優先度も重要な決め手だ。インドは無数の人間がいて、限定される素晴らしい医者と医療をこれらの人間が獲り合っている。当然、一般人よりも政治家や金持ちなどが優先して治療を受けることになる。その長い列の中に割り込んで先端医療を受けるのは至難の業だ。たとえお金を積んだとしてもインドは所謂コネクションの世界であり、容易に順番に割り込むことはできない。以上の理由により、日本では助かるものが助からないという覚悟を持つ必要がある。

緊急な場合でもできるだけ助かる可能性を高くするために、いくつか準備をしておくとよい。まず、勤務先の会社に緊急搬送体制があるのかを赴任前に確認しておく。会社によっては、命の危険に直面した場合にシンガポールや日本に航空搬送してもらうオプションを整えている会社もある。街の渋滞は回避できないが、先端医療の長い順番待ちに並ぶことを回避できる。携帯電話には、医療仲介サービスの電話番号を必ず登録しておき、何かあったらすぐに電話を掛けられるようにしておく。日本のように119に電話を掛けたらオペレーターに繋がって、そこが最善の手配をしてくれるという体制にはなっていない。個別の病院窓口の電話番号も登録しておくとよいが、緊急時に大病院に電話をしてもいつまでも対応されない可能性があるので、近所の中小規模の病院を見つけて、これらの連絡先も登録しておくと安心だ。

インドの大病院の診療構造は、患者が一人で行くことを想定していない。誰か付き添いの人間がいることが前提になっている。これは大家族ならではの文化が反映されたものだ。「家族が病気なのだから、一緒に住んでいる誰かしら付き添いで来るのが当然だろう」という考えだ。そのため、診療フローがウォークラリー方式になっており、はじめに金を払ってその切符を持って検査や診療の場所に行くスタイルだ。自分でレントゲンの写真や血液検査の結果を受け取ってそれを持って医者の部屋を尋ねる。体の調子が悪い状態でこれらを自分で行うという事態が全く想定されていない。よって、配偶者の調子が悪くなった場合、自分も付き添いで病院に行くか、医療仲介サービスにお願いして付き添ってもらう必要がある。インド人が家族の病気を理由に頻繁に会社を休む理由はこれである。
 

・人間ドックは年二回、内一回は日本で


インドに着任して健康を維持するためにこれだけは必ず実践してほしいことがある。それは「人間ドックは年二回・その内一回は日本の大病院で」という原則だ。深刻な大気汚染、水・食品に蓄積される汚染物質、そしてインド民が繰り広げる社会のストレスによって駐在員の体は相当なダメージを負っている。病院に行くのも億劫になるので、深刻な病気になっていたとしても発見が遅れやすい。そのため人間ドックは年間二回のペースで行い、体の異常を確認する習慣が大事だ。インドでも人間ドックを行うことはできるが、そもそも予防医療が社会に浸透していないインドの人間ドックのクオリティは非常に不安があり、命を任せるには不十分だ。コストはかかるものの、日本の大病院で検査を受けるべきだ。その際にはいくつかのオプション検査も混ぜながら徹底的に安心と安全を買いたい。私が知る限り深刻な病気が発見された駐在員のほとんどは、インドではなく日本の検査ではじめて具体的な診断に至っている。インドでいくら健康診断を行ったとしても、あくまでもそれは補助的な役割しかなく、日本での人間ドックを実施することがポイントである。

・大気汚染の深刻度と対応


大気汚染による健康被害の研究は多数公開されているので、その影響が深刻であることの説明はここでは省く。特に首都デリーの汚染状況は酷く、冬の大気汚染シーズンになると発熱や頭痛や咳などの症状に苛まれ、まるで砂埃のように視界をさえぎるスモッグを見るだろう。状況は年々深刻になっており、改善の兆しは見られない。デリーは10月後半あたりのディワリシーズンが到来すると気温の低下とともに一気に大気がくすんできて、見るからに空気の質が悪くなる。この状況が大体3月の第一週まで続く。要するに一年の内5か月くらいはマスクなしでは外に出歩けない状況になる。インド人の中にはこれらの大気汚染をあまり深刻に捉えずマスクもしない者もいるが、そもそも遺伝的にもリスク許容度的にも彼らと日本人は異なるので、インド人基準で考えるのはとらえ方が歪んでしまう。もちろんインド人自身もこれらの影響を受けていて呼吸器系の疾患は多い。直接的な因果関係は証明できないが、私自身の駐在期間中でも、複数ガンを発症する駐在員がおり、現場の状況を見ていると大気汚染の深刻度は駐在を拒否する合理的な理由になるほど深刻だ。

家や建物の中に入れば安全かというとそうではない。インドの家の密閉度合いは悪く、窓が木枠の場合は隙間だらけなので、外の汚染された空気が室内に侵入してくる。これは室内の汚染モニターを見ても明らかである。アルミやスチール枠の窓も建付けが悪いので外部の空気が容易に入ってくる。玄関の扉も盲点である。インドの家のほとんどの玄関の扉は木の扉であり、多くの家でなぜか玄関扉の床の間に大きめの隙間がある。よって、デリーのように大気汚染が深刻な都市では、家の中の空気を浄化するために強力な空気清浄機を常時回しておかねばならない。インドの家の広さを考えると空気清浄機は一家に最低3台は必要だ。リビングと寝室と子供部屋だけで3台になる。インドのメーカーの低価格なものではなく、ダイソンやフィリップスや日系メーカーのできるだけ強力なものを購入することをお勧めする。多少は値段が張るがここはお金をかけるところである。オフィス内で勤務している際も、外にいる場合とあまり変わりはない、特に大気汚染がひどいシーズンはオフィスの中でもマスクをつけるか、卓上空気清浄機などを設置することで大気汚染から身を守る。

・よくある疾患、消化器系


インドの駐在員が悩まされている病気にはどのようなものがあるだろうか。大きくは、消化器系、呼吸器系、特殊な危険ウイルスの三つに分けることができる。一つ目の消化器系の疾患は、まさにインドを代表する悩みである。消化器系の疾患に悩まされる状況にはかなり個人差があり、ローカルの屋台料理を食べてもなんともない日本人から、駐在後何年も経っているのに特に理由も分からず頻繁にお腹を壊している駐在員もいる。「駐在後しばらく時間が経てば腸内環境が変わって誰しもお腹が強くなる」という説を聞くこともあるが、そんな都合の良いことが万人に起きるわけではない。これらの消化器系の疾患リスクにどのように対応しくべきか、前回纏めたこちらの記事では極めて具体的な対処方法を紹介しているこれらに気を付けて無謀なチャレンジをしなければ地獄を見るような消化器系の疾患に直面する確率を抑えることができる。尚、「日本人が監督していない日本食レストラン」は鬼門なので注意が必要だ。日本料理や生食材の扱い方の基本常識がない中で形だけをまねようとしている店もあり、日本人なら当然知っている食品衛生上の基本的な手順が省かれているリスクがある。インド人が経営・運営するラーメン屋が開店し、そのラーメンを食べた客が豚サルモネラ菌に感染した事例もあった。もちろん豚はインドで食材として使われることは極めて少なく(北東部は例外)、その店で感染したのは明らかであった。SNS上で、血がついたべっとり付いた包丁で、そのままネギを切る様子を店側が投稿していたことから、おそらくその行為にリスクがあるとすら気づいていなかったことがうかがえた。
 

・呼吸器系疾患


コロナはもはや誰一人気にする人はおらず、普通の風邪と同じくらいの扱いになっている。コロナと思われる症状が出てもインド人は検査すらしていない。そのため、呼吸器系疾患の内、インドにおけるコロナの現状というものは正確に把握できない状況だ。社会が正常化した現在においても、前述の通り大気汚染が深刻なデリーでは、日本人のみならずインド人も呼吸器系の疾患が多発しており、さすがに大気汚染シーズンはインド人でもマスクを着用する。呼吸器系疾患は、咳・頭痛・発熱・体力低下・体の痛みなど症状は様々だが、シーズンになると確実に体感できるほどに体調不良が発生する。非常に怖いのは、発がん性のある有毒ガスやpm2.5などへの暴露により、肺がん・咽頭がん・舌癌などのリスクが高まることである。大気汚染シーズンでは、前述のような対策を行い、将来の発がんリスクを抑える努力を怠らないことが重要だ。大気汚染が深刻になるシーズンは長期休暇を積極的に組み合わせることによって、なるべくインドにいる日数を減らす工夫をするといい。具体的には、祭りの爆竹や花火で大気が一気に悪くなるインドの正月にあたるディワリシーズン(10月後半から11月初旬)と 日本の本社も稼働していない年末年始、この二つのタイミングで長期休暇を取得するのがポイントである。早めに長期休暇の予定を申請し、命を守る努力をすべきだ。少しの間でも体を大気汚染のない地域に置くことで体へのダメージを軽減するためである。

・デング熱・狂犬病


10月から2月後半までは大気汚染まっさかりであるが、それ以外の季節もインドは過ごしやすいというわけではない。モンスーンの季節が終わった8月、9月、11月前半は(デリーの場合)、デング熱を媒介する蚊がうようよ出てくる。デングは暑さや雨が収まって気持ちの良い天気が続く時期に発生するので大変苛立たしい。デング熱の症状は急なだるさから発熱が起こる。インドで生活していると高熱がでることはよくあるので普通の風邪と勘違いするが、その違いは凄まじく、コロナよりもつらいという声を多数聞く。デング熱の時期は蚊よけのガスを噴出する電子蚊取り線香のような装置を家に複数設置し、外出するときは長ズボンを徹底すること、インド人が密集しているような空間にいかないこと、そしてゴルフは控えること。これらを実践してほしい。デング熱の検査は血液検査で判定できるので、この時期に発熱があったらさっさと病院に行って血液検査を実施することが重要だ。場合によっては入院ということもあり得る深刻な病気であり、回復してからも完全に体の調子が戻るまで数週間かかる。どれくらいの確率で感染するか気になるところかもしれない。現場の実感ではインド人スタッフも含めて30人程度いれば一年間で誰かしら感染するイメージだ。

狂犬病は言わずと知れた犬やそれに近い動物が媒介する致死性の病気である。あまりに危険度が高いので、当然日本から赴任する場合はワクチン接種をしてから赴任するのが駐在員の定石である。ただ、盲点となりやすいのは、帯同家族のワクチン接種と、ワクチンの効果の期限である。狂犬病のワクチンは複数回の摂取が必要で、それぞれの日を空ける必要があるため、摂取完了までしばらくの期間を擁する。うっかり帯同家族の摂取を忘れてしまうといきなり対応することができず、摂取が完了する前に帯同することになる。インドに来てから残りを摂取すればいいと考えるかもしれないが、インド人の思考やリスク認識は全く日本人とは異なるので、病院に行っても、「ワクチンなんて打っている人は少ない。嚙まれたら24時間以内に打てばいい」と言って追い返されるケースが非常に多い。このようなリスク認識なので年間数万人のインド人が狂犬病で死ぬ。ワクチン接種を受けたとしても安心できない。ワクチンの有効期限は約2年間なので、駐在期間中にはその効果が切れてしまう。ブースターを打てば有効期間を延ばすことができるが、そのタイミングでは既に駐在を開始してインドにいるため、ブースターを忘れてしまう人が多い。インドの道端には信号機の数より多くの野犬がそこら中にいる。狂犬病のワクチンは必ず摂取することを徹底したい。尚、ワクチンを接種していても噛まれたら病院に行って発症を抑える処置をする必要がある点は絶対忘れてはいけない。
 
(ここまでで、インドの「医食住」の中で最も重要な「医」について、インド着任者が気を付けるべき実践ポイントを纏めました。次は、「食」・「住」の観点から着任者が知っておくべき生活をよくするためのポイントを説明します。)


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