人生で一番脂が乗っている時期に精神疾患を患うということ
その時期がいつなのかという議論はさておいて
わたしは地元の大学を卒業(1留)して、新卒で入った会社でパワハラを受けて(筆者が無能すぎるだけという論説もある)わずか1年目にして軽度から中度の鬱病と診断され、当時金型の加工部門にいたのを降ろされて、金型部門の下働きをしばらくやることになった。下働きといっても、成型の補助とか、成型品の検品とか、材料の角出し(直方体である材料の6面の、全ての面が隣り合う面と直角であり、向かい合う面と平行になるようにフライス盤を用いて加工する作業。たぶん社内用語)とかをして、定時まで工場の中をブラブラとしていた。
それで本当に生産性が上がると思ってるの?
設計担当者を増やし、各工程を一本化することで生産性が上がると本気で思っていたらしい。当時の会社の上層部は。
わたしはようやく慣れ始めた、金型の切削加工部門から、ワイヤーカット部門にまわされることになった。すでに班にはワイヤーカット担当の先輩がいたが、これが典型的なパワハラ上司で、怒号や罵声が聞こえない日はなかった。そんな調子で仕事を覚えられるわけもなく、パワハラはエスカレートし、わたしはとうとう精神科のお世話になることになった。加工部門から隔離されても、当人から謝罪の言葉は一切なかった。
その後、
実はそのときに所属していた班にはもう一人精神疾患(詳しい病名は聞いていないが、わたしよりはるかに重度)を抱えているヒトがいたのもあって、班長(係長)はわたしの、というか精神疾患の扱いを心得ているように思えた。わたしにワッと一度に指示を与えると混乱してしまうから「これが終わったら報告に来い。次の指示を出す」「この手順書の通りにやって、終わったら報告しろ」といった具合に仕事を与えてくれた。「会社にいるからにはなにかしらの仕事をしてもらうからな」と言われた。
精神科に通うようになって、薬を服用し始めてから症状はほんの一瞬だったけど落ち着いた。けれど、そう簡単に治ったら一億総精神病社会なんて言われないわけで、ぶり返してしばらく仕事に行けない時期があった。給料は当然激減して、家賃を払うのがやっとだった。おまけに「新しい仕事をやってみないか?」と工場長に唆されて、ブラック中のブラックみたいな部署に配置転換されてしまい、慣れない環境に曝されてまた調子を崩してしまっていた。時同じくして、アイカツ!ミュージックフェスタ2017が開催されていて、宮崎の外を知らないわたしは、まるで外国のブティック街に憧れる少女のような気持ちで当時のツイッターを眺めていた記憶がある。
もし、配置転換を断っていたら。
もし、初任給が出た時点で「求人票と違うやんけ!」と総務に怒鳴り込んで辞めていたら。
たらればにはなるが、わたしの人生はもっと変わっていたのかもしれない。3週間後にわたしは32歳になる。小学校卒業20th Anniversary,来年には大学卒業10th Anniversaryである。世話になった先生たちは大方定年退職、中には鬼籍に入られた方もいる。仮にわたしのことを覚えていてくれたとして、いまのわたしの状況を知ったら、先生たちはどう思うだろうか。先生たちだって精神障害者、社会のゴミを世に送り出すために教鞭をとっていたわけではない。特に、学校長まで務めて国から勲章を貰った母方の祖父はきっと哀しむだろう。
30越えて作業所通いで月収2万円の精神障害者、社会のゴミ、不幸製造機として名機。
一方で、専門か短大を出て、管理栄養士として弊社の別の就Bの管理者を任される21歳のキャリアウーマン。どこで差がついたのか。働き盛りといわれる歳で、作業所でガラクタを仕分けしてメルカリで売却するしかできない32歳。お先真っ暗。同期は家を建てたが、わたしは墓すら建たない。無縁仏。直葬。集めに集めたグッズは無造作にゴミ袋に投げ込まれ、思い出の詰まった自転車は競売にかけられるか資源ゴミ行き。
10歳のとき、ハタチになったら死ぬんだと思っていた。
ハタチのとき、30歳になったら自殺するものだと思っていた。しようとしたところを駅員さんに止められて、駅長室?みたいなところに連れて行かれてこっぴどく叱られた。
32歳になるわたし、生きてる。なぜ。
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